僕はこんな事を考えている ~curezの日記~

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スーパーマン・スマッシュ・ザ・クラン

スーパーマン・スマッシュ・ザ・クラン (ShoPro Books DC GN COLLECTION)

SUPERMAN SMASHES THE KLAN
著:ジーン・ルエン・ヤン(作)グリヒル(画)
訳:吉川悠
刊:DC 小学館集英社プロダクション DC GNCOLLECTION
アメコミ 2020年
収録:SUPERMAN SMASHES THE KLAN #1-3(2019-20)
☆☆☆☆★

 

『あれが…スーパーマン?』
舞台は1940年代。チャイナタウンからメトロポリスに引っ越してきたリー兄妹。
メトロポリスでの毎日を楽しむ兄のトミーとは真逆に
妹のロベルタは自分の居場所を見つけられず、新しい環境になじめなかった。
そんな二人の日常は、メトロポリスを守るヒーロー“スーパーマン”との出会いで激変!
ある夜をきっかけに、二人は白人至上主義を掲げる
秘密結社クランとの戦いに巻き込まれてしまう。
ロベルタとトミー、そしてスーパーマンはこの戦いに勝利することができるのか?

2020年ハーベイ賞ヤングアダルト部門受賞作品!

 

という事でDC GN COLLECTIONとして刊行された1冊。
今回の敵は何とあのクー・クラックス・クラン(KKK)です。色々な映画とか見てると割とKKKはよく見かけますよね。あの白人至上主義者で白い頭巾をかぶった怪しい集団。

 

アメコミ、私にとってはスーパーマンが特に顕著なのですが「1000万パワーの強大な敵!」みたいなものと戦うとかより、人助けであったりとか、こういう人種差別とか社会問題に立ち向かう!みたいな部分が、凄くアメコミらしい部分に感じられて、どちらかといえば強大な敵と戦う系よりも、こっち系の話の方が好みだったりします。

 

ドラマ版「ウォッチメン」でも、丁度今のアメリカの問題のブラックライブスマターに重なるテーマになっていて、凄く今風だなと思いましたが(あっちでもKKK絡んでたし)スーパーマンでも今回そういう問題を扱うんだな、くらいの感覚で読み始めたのですが、解説を読んでちょっとビックリ。これ、今だからこそ描けたとかじゃないんですね。

 

何と1946年のラジオドラマ版「アドベンチャーズ・オブ・スーパーマン」の「クラン・オブ・ファイアリー・クロス」編というのが下敷きになっているのだとか。なので今回の話は1940年代という設定になってる。


そちらのラジオはニューズウィーク誌に、「社会性を意識した初めての子供向け番組」と評価されたそうです。へぇ~面白い。

 

スーパーマンって第二次世界大戦の時に日本軍とも戦ってるんですよね。スーパーマンの歴史を追うような作品だと必ず取り上げられる、フライシャー兄弟が作ったモノクロ時代のアニメとかこれまで何度も見ました。(宮崎駿巨神兵の元ネタって公言してるあれです)

 

日本人としてはちょっと複雑な気持ちはありつつも、その辺はね、そういう時代だったんだね、くらいで私は済ませてますが、じゃあ戦争が終わって敵の日本軍やドイツ軍が居なくなってスーパーマンは何と戦うのか?となった時にKKKと戦うアイデアが出てきたそうで、勿論そこは相当な気を使って描いたようですし、批判も覚悟の上でやったそうですが、多少の批はありつつも、それでも賛の方がずっと大きかったと。この辺りの挑戦が凄いと思うし、面白い部分だなと感じます。

 

で、単純にそのラジオ版をそのままコミカライズ化したとかではなく、作者のジーン・ルエン・ヤンがアメリカ移民の中国2世なので(何でもコミックライターの傍ら高校教師なのだとか)自身のアメリカンチャイニーズとしての体験や、実際の移民である親の経験談なんかを参考にしつつ、よりリアルで身近に感じられるような形でラジオ版を更にブラッシュアップさせて今回の話を書いたと。

 

面白いのは、単純にそういう移民の問題をスーパーマンの話に無理矢理落とし込んだ、とかじゃない辺りが今回の作品の凄さだろうと思います。

 

スーパーマンって少し詳しい人なら知ってる部分ですが、作者のジョー・シャスタージェリー・シーゲルってユダヤ系なんですよね。だからスーパーマンは異邦人であるのだというのは割と有名な話。

 

なのでスーパーマンを自分の手で語り直す時に各作者は、そのアイデンティティはどこにあるのか?というのを描きたがる。これまで何度も何度も色々な作者によって自分なりの解釈のスーパーマンが描かれてきた。外の世界から来たスーパーマンアメリカ人であるべきなのか?的な所を。

 

フランク・ミラーはスーパーマンに対して、アメリカ人になるな、その力があるのならこの世界の神になるべきだ、と主張してきたし、マーク・ミラーはじゃあスーパーマンアメリカじゃなくソ連に落ちてきてたら共産主義のスーパーマンになるんじゃね?というのを「レッドサン」で描いたし(単純に悪のスーパーマンとかじゃないのが面白味)、マックス・ランディスはそのままのタイトルの「アメリカン・エイリアン」(=異星系アメリカ人)なんてのを描いた。

 

そんなに社会色の強く無い作品だと、スーパーマンは異星人でありながら、その人格はカンザスの田舎町スモールビルで牧歌的な両親に育てられたからああいう良い人なんだよ。スーパーマンの仮の姿がクラーク・ケントではなく、クラーク・ケントこそが彼のアイデンティティでスーパーマンがクラークの仮の姿なんだ、的な解釈も多いような気がします。

 

じゃあ今回の作品はどういう方向なのかと言えば、自分の力に恐れを抱いて、本当の自分を出してしまえば世の中からは自分は受け入れられない、なのでなるべく普通であろうと努力する姿が描かれます。

 

皆に受け入れてもらうには、皆に合わせて生きていかなければならないと。これが今回の主人公かつヒロインのロベルタに重なるんですよね。中国移民のロベルタは自分のルーツや個性をひた隠して皆に合わせて何とかアメリカ人に受け入れてもらおうと努力すると。

 

でも、それでいいの?あなたはあなたなんじゃない?スーパーマンとロベルタは互いに交流していく中で、映し鏡を見るように成長していくと。ここが凄い。

 

更に言えば、ラジオドラマ版1940年代設定がここで生きてくる。スーパーマンは元々は空を飛べる設定じゃ無かった。ハルクみたいにその強靭な脚力でジャンプする事で、「高い山をひとっ飛び」してたのですが、明確に空を飛べる・浮遊するという設定が出来たのがそのラジオドラマ版から。(弱点のクリプトナイトとかの設定もラジオ版から生まれてます)

 

「ただ優秀なだけの普通の人間だと思われたいんだ 走るのも、ジャンプも重い物を持ち上げるのも全部人間に出来ることの延長戦上だよ」
「でも本当は人間には絶対できないことだってあなたにはできる。だよね?」

 

スーパーマンが空を飛ぶ。今では当たり前で誰も何とも思わない事だけれど、「人が空を飛ぶ事」のみをクライマックスに持ってこれるこの面白さ!まさしく、これぞスーパーマン!っていう感じです。よく考えてあんなこれ。

 

最後のイニシャル「L・L」も面白いし、単純にアメリカ人全員を下げてるとかでも無いし、作者の経験を交えて語る最後のコラムみたいな奴も読み応え有って面白いし、今回、初のDCタイトルを手掛ける事になったグリヒルのアートはやっぱりわかりやすくて素敵だし、何これ凄い作品じゃん!っていう感じでした。

 

作品の方向性とか性質がそういうものなので仕方ないんだけど、オンゴーイング誌とか派手なイベントタイトル読んでる時の、この先どうなるの?みたいなワクワク感はちょっとだけ乏しい、あくまで「地味な良作」っていう感じではありますが、とっても面白かったです。

 

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