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ジョジョリオン 21~27(完)

ジョジョリオン(21) (ジャンプコミックス)

ジョジョの奇妙な冒険 part8 ジョジョリオン
Jojo's bizarre adventure,part8 jojolion
著:荒木飛呂彦
刊:集英社 ジャンプ・コミックス 全27巻(2011-21)
☆☆☆☆★

 

という事で「ジョジョリオン」最終巻まで。
つーか21から最後までずっとラスボス戦なのね。

 

まず荒木飛呂彦に一言!
「ファイナルディスティネーション」と「イットフォローズ」に影響受けすぎ!
元々その辺の映画は、本来荒木が持っているテイストに近い作品ですし、別にそのままやってるわけでもないですが、ラスボスの能力「ザ・ワンダー・オブ・U」でやりたい事って要はその辺ですよね。

 

「ファイナル~」も「イットフォローズ」も「死」という概念に一度つきまとわれたらそれからはもう逃れられないっていう話で、そこをジョジョリオンでは『厄災』と言う言葉にしてある。そしてそれが「呪い」でもあると。

 

5部エピローグの「眠れる奴隷」辺りから、もし『運命』というのがあらかじめ決まっているものなのだとしたら、人間の自由意思は?その運命から逃れる術であったり、その運命の中で人はどう生きるべきか?決まっている運命にどんな価値があるのか?みたいな所にやたらと拘るようになってきましたよね。6部も7部もそこをずっとテーマにしてるし。

 

ただそこは少年漫画らしく『黄金の精神』とかで、そういたものは打破できるんだ、あるいはそれでも価値はあるんだ、という描き方をしてきた。が、青年誌に移り、少年漫画的な夢や希望だけではない、「現実は非常である」っていう部分も色濃くなってきた作風が更に追い打ちをかける。

 

ジョジョリオンは1巻の冒頭からあるように「震災後」の話。しかもS市杜王町というのは言わずもがな、宮城県仙台市。荒木の出身地でもあり、実際に震災で津波の大きな被害を受けた場所でもある。実際にその地を見て荒木は思ったのでしょう、厄災こそがこの世の中で最も恐ろしい物であると。ならそこをテーマに描かねばと。

 

仮にもジョジョは「人間賛歌」を謳ってきた作品でもある。いくらその人が血のにじむような努力をしても、ひとたび『厄災』が起きてしまえば、それは全てを無に帰してしまう。この世界には人間の力ではどうにもならない事があるのだと。

 

この考え、社会学では1995年が節目とされていて、それは阪神淡路大震災でもあり地下鉄サリン事件のあった年である事が大きな要因とされていて、いくらそれまで頑張って努力していたとしても、その全てを無駄なものにしてしまうのがこの世界なんだ、っていう認識が一気に増えたとされている。

これ、漫画とかでも「努力して何かを得る」とかよりも、「自分には特別な才能があるんだ」っていう方向に段々と路線変更していったのと多少なりとも関係してたりもします。

それはともかく、荒木にとってはそれが東日本大震災こそが身につまされる出来事だったというのは想像に難くない。

 

ゴメン、私にとっても阪神淡路大震災オウム事件は正直言って対岸の火事でした。おそらくは西日本の人にとっては東日本大震災は同じように対岸の火事だったと思う。勿論、朝から晩までTV番組は全てニュース映像になり、全国的な電力不足に悩まされたような部分で、多少なりとも影響はあったとは思うけど、喉元過ぎれば何とやら、というのもまた人としてそういうものだとも思う。

 

私も震災後すぐくらいは正直そうでした。そこから1年も経ってからの話ですが、実際に宮城県に行ったり、その下の福島県に行ったりした時に、その想像を絶する被害を改めて感じて、物凄くショックを受けました。

 

また違う例ですが、アメリカだと9.11の直後は、コミックの分野でも大きく影響が出ました。こんな絵空事のコミックを書いていて何の意味があるんだ?漫画の中のヒーローは現実を救えやしないじゃないか!そういう空気になったんですね。そこからもう少し時間が経って、いや、絵空事だからこそ、そこには伝えられるものもあるんじゃないか?って少しづつシフトチェンジしていったという例もあります。

 

そういう葛藤やジレンマこそが「ジョジョリオン」という作品だったんじゃないかと。そんな視点で見た時にこの作品の本質が見えてくると私は思う。軽くネットで検索した感じだと、その辺に触れてる人はほとんど居ないみたいなので、私はそこの視点を中心に感想書いてみようかと思います。

 

東方家、あるいは定助の家族の物語だったという部分に異論を挟む人は居ないでしょう。物語の締め方もそこでしたし。

 

震災の時、真っ先に何を心配しました?家族や恋人とか、自分に近しい人は無事だっただろうか?と思いませんでしたか?勿論それ全員が同じ考えとは言いませんけど、そう思った人は多いのではないかと。

 

ジョジョって、1部のエリナを除けば、恋愛描写ってそんなに軸としては描かれてきませんでしたよね。ジョジョって元のコンセプトから、世代の引き継ぎって1部の時点の最初から構想されてたので、エリナとかスージーQって多分そういう血族、血脈の話をするんだからという理由で入れていたのであって、恋愛を描きたくて描いてたわけじゃあ無いと思う。でも今回の康穂に関しては意図して恋愛要素を強めに描いてある。

 

勿論、ジョジョらしく家系図は出てくるし、最後の最後に7部との繋がりも描かれはしました。でも定助は仗世文でも吉良でもなく、土の中から生まれた自分を受け入れて、新たに自分の人生を歩んで行く事を選ぶ。

過去ではなく未来が大事なんだと。ジョジョリオンが描いたものは結局の所、そういう事なのでしょう。

 

ここでポイントなのは、ジョジョリオンという作日が「新しい価値観を最初からずっと描いていた作品だった」っていう事じゃないんですね。「ジョジョリオン」とはそこに至るまでの「過程」を描いた物語だったわけです。(そこはとてもジョジョっぽいですよね)

 

透龍君は新ロカカカで世界の構図をひっくり返そうとしました。常敏も新しい価値観で東方家を発展させようとしました。二人とも、古い価値観からの脱却を図ろうとするんですね。条理や宿命、これまでずっとそうしてきたという過去のしがらみこそが「呪い」であって、そこからどうやって抜け出すのかを考えています。

 

ザ・ワンダー・オブ・U」って、一応は透龍君のスタンドではありますが、最後の最後に厄災そのものの形がワンダーオブUであって、それが消える事は無いって言ってますよね。じゃあ、それを打ち破るものは何か?それが「ゴー・ビヨンド」その向こうに行け、あるいはそれを越えて行けっていう意味の単語ですよね。

 

厄災=この世界の条理、或いは不条理、禍であり、それがこの世界から決してなくなる事は無い。そういう価値観こそが呪いであって、ジョジョ的にはじゃあその運命や宿命からは逃れられないものなのか?というのが、荒木が地元の震災を経験して改めてジョジョリオンで描こうとしたテーマであって、そこから試行錯誤して描いているうちにたどり着いたのが「ゴー・ビヨンド」。それを越えて行け!という主張をしたわけです。

 

その乗り越える力のロジックが「回転」というのは私にはよくわかりません!7部の時からその回転の力を描き始めたけど、荒木の中でのロジックがどうなってるのか私は理解してないです。外部に依存しないそれ単体のみで完結している力だから、みたいな感じなのかな?永久機関的な感じとか、そこのみで成立する宇宙みたいなもの?荒木が回転には特別な力があるって思うに至った切っ掛けって何だったんでしょう?教えて詳しい人。

 

自然の中にある無限の力だからこそ、自然の理という壁すらも突破できる、というロジックなのかなぁ?個人的には神をも騙して世界線を越えるって「シュタインズゲート」のロジックがメチャメチャ面白くて好きなのですが、まあ荒木はああいう騙すみたいなものは好きじゃ無さそうですしね。


その謎の回転理論はともかくとして、定助も自分でコントロール出来ない力を導く役割をするのが康穂ちゃんのペイズリー・パークだったっていうのは面白い伏線回収でした。

 

いや荒木が最初からそれを想定していたのかはちょっと怪しい部分ではありますけど、ペイズリーパークの能力って、「人を正しい方向に導く力」ですよね。

 

透龍君も康穂ちゃんに近づいてたけど、あれって単純に利用していたっていうだけの話で、決して惹かれあっていたわけではない。対する定助と康穂は互いに惹かれあっていて、ジョジョ的に言えば愛=魂の引力や重力になるわけで、それもまたある種の家族に類するものです。

 

過去の仗世文や吉良ではなく、土の中から生まれた定助を最初に受け入れてくれた人物。恋愛的な要素をこれまでは重視して描いてこなかったジョジョシリーズの中では割と異端な存在ではありますが、かつて4部では親友であった康一君の性別を変えて女の子にした意味もちゃんとそこにはあったと。そこは凄く感心しました。厄災や呪い、理を越えて行く手助けをしたのは康穂ちゃんの愛だったっていう話ですよね?これ。

 

ピンチの康穂ちゃんを常秀が救ってくれた時は、お!ついにこいつも覚醒したかと思ったけど、結局は即物的な感情で動いてるだけで、その後すぐクズに戻っちゃってたのはちょっと残念でしたが、そこだけ献身的な愛とかに描いちゃうとテーマがブレちゃうので、あそこはアホな奴に戻さなきゃならなかったので仕方ないかも。

 

力の指向性、ベクトル理論みたいな部分ではね、密葉さんの能力も面白かったんだけど、そこは強いお母さんみたいな所で終わっちゃいましたね。花都さんもそんな感じの役割でしたが、それでもジョジョとしては割と珍しい描き方かもしれない。そこは時代の変化っていうのもあって、ハリウッド映画なんかに顕著なんですけど、ただの主人公の男の添え物的な女性の描き方がほとんどだった昔と比べて、今は女性の強さみたいなのは昔よりずっと描かれるようになってきました。映画に影響を受けまくってる荒木にも、そこは当然間接的にでも影響はしてくるでしょう。

 

そこ考えるとね、いかにもハリウッド的なマッチョイズム全開だった「バオー来訪者」から「ジョジョ」の1部2部辺りのキャリア初期の荒木作品からの変化として見ても面白いですよね。(最も荒木先生は昔からひとひねり加えてはいたけれど)

 

確か荒木先生って既婚だったと思うけど、奥さんや子供の影響とかはどうなんでしょう?妹だとか父親だとか、元からの家族は近影コメントとかで割と多めに出てくる印象ですけど、奥さんの話ってした事ありましたっけ?もしかしたら映画だけでなく、母は強しみたいなのはその辺の影響があったりするのかどうかはちょっとわからない感じ。

 

とまあ、時代や現実を踏まえて、その上で漫画で何を描いたのか?っていう視点で見ると、ジョジョリオンは相当に歴史的にも重要な作品になった印象。震災後の価値観の変化を漫画で表現してるものってどれくらいあるものなのかな?私は漫画文化全般に詳しいわけではないので、その辺の実情はわからないですけど、多分ジョジョリオンはその辺に関しては結構貴重ですよね?

 

ぶっちゃけ、世間的にはあまりよろしくない評判の方が多い印象ですけど、私みたいに社会背景を含めた視点で見ると、他に例を見ない面白い作品にはなってると思います。

 

まあでも若い人はあまりそういう視点で見ませんしね。そこに対してそれは間違ってるよ、って言うのもちょっと気がひけますし、逆に連載の最初から追いかけてる良い歳したおっさんにはこんな風な視点でジョジョを見てるよっていうのを楽しんでいただければ。

 

そりゃメタ視点抜きで単体の漫画として見たら、私も不満はいっぱいありますし、単純に話としては過去の部の方が面白かったようには思います。

 

10巻までの感想で書いた通り、この主人公は何者なのか?っていう部分で引っ張る部分が長すぎて、前半は正直退屈ですし、次の20巻までの感想の時のように、そこはグッと一気に盛り上がって来ましたけど、多分岩人間って後から足した要素ですよね?最初から構想していた部分とは思い難いのは確かで、全体的に観ると途中で路線変更したようには感じる。


厄災あるいは呪いを乗り越えるっていうテーマ自体は最初から持ってるものだとして(それは過去のシリーズでも出てきていたテーマですので)、それを描きながら荒木なりに変化していったという事なのだと思う。だから最初に言った通りこれは過程の物語なんだなっていうね。


神・創造主、あるいはそれ自体が理と言っても良いのかな?それが人間の変わりの保険として岩生物を作ったっていう設定は面白いし、それが石仮面とか矢にフラッシュバックするシーンとかは鳥肌物です。ちょこちょこと7部との繋がりが入るのも良かった。

 

でも岩人間側のキャラクター性がちょっと弱いかなっていうのと、そもそもバトルが基本定助ばっかりなんですよね。実質仲間は康穂ちゃんと豆銑さんくらいで。しかもソフト&ウェットの「何かを奪う」能力もほとんど生かされない戦い方が多かったし、毎回大ピンチになるんだけど、結構単調な印象は拭えず。

 

これは終わってみてから感じたんですけど、ソフト&ウェットって、堅くて乾いている岩人間とは対極のネーミングです。岩人間は言ってしまえばハード&ドライ。ここがね、話のテーマの方には繋がってるんです。

 

世の中には絶対に動かせない決まりみたいなもの、「理」とか「運命」、それは思わぬ時に襲いかかってくる「厄災」とかもその一環なんだと。人間一人が考えたってどうしようもない、世界の決まりです。すごくドライでハードな考え方ですよね。

 

最終巻の近影コメントで荒木自身も
「厄災を「乗り越える」とか考える事、それ自体がいけない事なのかもしれない。」
とまで言ってます。

それは世界や創造主から見たら「理」なんだけど、人間から見たら「不条理」極まりないものだと。全部が逃れられないものなのだとしたら、人間が一生懸命努力するとか無駄な事って風になるじゃん。それは悲しいし嫌だな、私たちは一生懸命生きてるんだから、そこには価値や意味があってほしいよ!という、物凄く感情的で、ドライな考え方の対極にあるウェットな感覚ですよね。まさにジョジョリオンはそこを描いた作品なんだと。

 

「いけないことなのかもしれない」とまで作者が思ってしまうような事に大して、ゴー・ビヨンド!って定助は言ったわけです。それを越えて行けと。このメッセージ性は凄い。そしてメチャメチャ面白い。

 

シリーズとして見た時は、これまで人間賛歌を描いてきて、そこにどうしようもない壁にぶち当たってしまって、じゃあこの先何を描けばいいんだ?覚悟があれば人は幸福になれると6部で描いて、次の7部からは「2周目」に入りました。

でも2週目であっても、因果は襲いかかってくる。むしろそれは2週目だからこそ、という面も出てきた。じゃあそれを突き破るものは何か?それは回転という因果の壁さえも越える事が出来るエネルギーなんだっていうのを7部で描いた。


そんな折に震災があって、津波というエネルギーは人の命や生活、思いという所まで全てを飲み込んでしまった。それは恐らく人間個人の因果関係とは関係無い。それは厄災であり、自然そのものの力である。そこに対して人は絶望するしかない。

 

ジョジョ中期の特徴でもあった、魂の昇天っていうのを描かなくなったのも多分その辺が関係してますよね。そこに向かおうとする意志=黄金の精神でさえ、それは無力なものではないのか?

 

でもその黄金の精神の全てを否定したわけじゃない。それがペイズリー・パークの正しき道へ導こうとする能力であり、愛情が故の勝利でもあった。過去の因果を乗り越え、新しい世界を歩んでいく事。物事の最後に残るのは「思い出」ではあるけれど、それ以前に「夢」があると康穂ちゃんが言うのは、終わりではなく始まりであると。

 

そしてここから新しいものが生まれるという所での祝福・福音を意味する「ジョジョ『リオン』」であり、祝い事と不幸のどちらでも出す事が許される唯一の存在でもあるのが「フルーツ」だとして、そこをモチーフにしたのも頷ける話で、厄災を乗り越えた先にある、「世界」ではなく、その世界を構成する最小の単位である「家族」からまずは手始めに描き、家族の新しい形がここから始まるんだ、という締めになった。

 

細部のディテールはともかくとして、テーマとしては見事なくらいに綺麗に収まってるんですよね。

 

なんか雑多でまとまりのない感想になっちゃいましたが、一度ちゃんとこれ整理してまとめてみようかな?

ジョジョリオン」が描いたものは何だったのか?っていうまとめ記事ならそれなりに長く読んでもらえるものになりそう。いやめんどくさいんで実際はやらないだろうけど。

 

むしろこの辺りの考え方をベースにして誰か上手く纏めて下さい。割と核心をついてると思うのですが、どうでしょうか?似たような事を言ってる人は今の所はまだ少ないと思うので。

 

そーいや「ファイナルディスティネーション」はどうやって死の因果から逃れたんでしたっけ?5だか6だか最後まで見たけど、最初の話にループするくらいのとこしか憶えていない。ブログ書くちょっと前に見てたので感想残して無いんですよね。
「イットフォローズ」の方は結局その死がいずれ誰にも訪れるものだと受け入れた時に、今回の院長みたいにいつでもそばには居るんだけど、襲いかかってはこなくなった、っていう結末だったはず。

 

そういうものの影響を受けて、荒木がいや自分だったらこう描くなっていうのが「ジョジョリオン」という作品だと思うので、じゃあ今回のその結末(テーマに対する決着を経て)の先にある第9部「ジョジョランズ(仮)」が何を描くのかっていうのも期待して待とうかと思います。細部のディティールじゃなく、テーマの部分に私は注目して読みたい所です。

 

 

ジョジョの奇妙な冒険 第8部 モノクロ版 27 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

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