著:富野由悠季
刊:KADOKAWA 角川書店 単行本コミックス
2021年
☆☆☆☆☆
「Gのレコンギスタ」制作にあたっての初公開の企画原文、
膨大な世界観設定から、演出法、文化論まで――。
クリエイター志望者のみならず、映像ファン必読の書。
ここまで作り込んで制作と呼べるのだ。
という事で富野本。Gレコ劇場版4・5の前に読み終えてから映画を見ようと思ってたものの、なかなか忙しくて読み進められず、結局公開が終わってしばらく経った今になって読み終えました。
いやこれがめちゃめちゃ面白かった。というか「Gレコ」は皆が皆、よくわからなかったっていう作品ですし、信者的な褒めてるファンでさえ結構色々な考察とかしてるんですけど、そんなの必要無くない?この本に「Gレコ」の全部の答えが書いてあるじゃないですか。
私も3作目の感想を書いた時に、自分なりにGレコを理解したつもりでしたし、おかげ様でその記事が結構評判も良かったのですが、いやいやいや、もう全部の答え書いてある本がもうこうやって出てました。
たまたま私が見つけられて無い可能性は大きいですが、ファンの声とか、あとは少なくともyoutubeの動画とかでいくつか感想や考察、批評とか上がってるのは見たけど、私の中ではちょっと的外れに思えるような意見が多くて(勿論、その人の中ではそういう答えが出てる事は正しいので、それが間違ってるとかそういう否定意見を言ってるんじゃないです)どうせだったらこの本を読みこんだ上でGレコ解説すれば、もしかして後世まで残るんじゃないでしょうか?私はやんないので誰か是非やってみていただければ。
果たしてそれに需要があるのかどうかは微妙な所ですが。
・・・ていうか需要なんか無いのが実情。
この本、序文の書き出しの所から最高です。
なぜこんなものを書く気にになったのか
自分が企画・演出をした作品について書くことはやってはいけない。人気があればいろいろな方が解説をしてくださるのだが、そのようなことがなかった『Gのレコンギスタ』だから、自分で太鼓を叩くことにした。
いや何この哀愁120%オーバーな話。いやもうここまで富野は落ちぶれちゃったんだなぁと思うと、物凄く時代を感じますね。
TVアニメの監督として自分の名前で作品を作れるだけで、本当はまだ十分に恵まれてる方ではあるんだけど、かつてのネームバリューや業界での位置、今でもそうだけど世界と戦っているガンダムビジネスの創設者の一人が、実際の所はこんな所に押しやられていると。そこの部分だけでも凄く面白い。
私はかつて富野信者でした。アニメのみならず、小説やエッセイとかまで富野の名前が入ってる物は全部読みつくして、やっぱり富野最高だぜ!自分が信じられるのは富野だけなんだ的に思ってました。
ただね、それって凄く狭い世界だったんですよ。大した比較対象ももたずに、他の監督のアニメ作品を2~3本見て、やっぱり富野の方が面白いし優れてるよな、なんていうのは物凄く恥ずかしい事だし、まさしく井の中の蛙でしか無いと言うのに気付けませんでした。
ガンダムの新作「水星の魔女」が始まりました。今の所メチャメチャ面白いです。でも毎回そうですけど、ガンダムは新作が出る度に老害が発生します。
富野じゃないのに、富野を求めてどうするんでしょうか?「ガンダムUC」という富野っぽい事を真似してやろうとしたら、ただの劣化富野、ジェネリック富野にしかならなかった、という良い例を隔てた今なら、真似なんかせずにその人、その作品のやりたい事をやればいいじゃん!って私は思いますけどね。
水星の魔女、OPが「YOASOBI」に決定とか聞いた時、うわっ頭の悪い中高生の薄っぺらな奴にガンダムも魂を売っちゃうんだなと思いました。でもそれで良いじゃないですか。そもそもガンダムなんて昔から、青臭いガキの大人への反攻とか、大人はわかってくれないけどガンダムは信じられる、みたいなティーンの心のよりどころみたいになってた部分ってありますよね?
「ダブスタくそおやじ」とか、いかにもバズりワードを仕込みましたよ、みたいなのも凄く今風で面白い。マーケティングは凄く意識して作ってるの見えますよねぇ。そんな風に考えると、OPもね、若い人が若い人向けに作ってる感じが物凄く良いなと思える。
大人がプリキュアとか見るならさ、文句とかつけるより、多少の不満があってもそこはあたたかく、そして子供向けなんだからと微笑ましく見守るじゃないですか。「水星」だってそれと同じです。もはやおっさんは主人公に感情移入して見るような形じゃないんだし、楽しく見守りたいですねぇ。
マーケティング重視の商品として作ってるのは凄く見えるので、歴史的な1本とかには絶対にならない作品なの目に見えてますし、だったらそれはそれでね、富野じゃないんだからっていうのと同じ感じで割り切って楽しんでいこうかなと思うしだいです。
それこそ「ガンダムSEED」が、おっさんから見たら何これ?な内容だったけど、若い人のスタンダードになったわけですし、そっからまた20年とかですよね、また次の世代に向けた物があるのは別におかしくはない。
だって「ファースト」や「ゼータ」見てた人だって、自分達はニュータイプなんだ、古い大人の価値観じゃ無くて、自分達の世代で未来を作っていくぞ、と思ってたわけじゃないですか。で、そんな世代が作ってるのが今のこんなクソみたいな世の中ですしね。偉そうな事言える立場かよ?っていうね。
それこそゼット世代とかはきっとこう思ってますよ。こんな地獄みたいな世界にしたのは誰だよ?お前ら前の世代の奴らじゃん。そんな奴らの言うことに説得力無いし、耳を貸すわけねーじゃん?バカなの?って思ってるはず。
でも、じゃあ彼らは賢いのかと言えば、そんな事はなくて、自分達がもっと薄っぺらな事を知ってるから「うっせーわ」とかが流行るわけで、あんなのに自分を投影したりするしかない。それを解決できるのは勉強してこの世の中の仕組みを理解する事だよ、と私なんかは積み重ねて来た経験から思うんですけど、それはきっと届かない。
何故かと言うと、そんな歴史を昔から延々と繰り返してきたから。環境や状況が全く同じとは言えないけれど、例えば私のロスジェネとかの世代、正確にはその少し前とかになるのかな?ロックが新しいジャンルとして生まれた背景なんか今の人は知らないだけで、今の人にとって「ロック」なんて最初からある音楽のジャンルの一つ、程度の物であって、社会や大人への反抗や反骨心みたいなアイデンティティーは一切関係が無い。昔の人だって思ってたんですよ、こんなクソみたいな世の中は自分達若い世代が変えてやるって。それがガンダムで言う所のニュータイプなんですよ。
富野なんかは特にその象徴とされたの。だから富野は神であり、信者っていう概念が生まれたと。でもそんな神様の化けの皮が剥がれちゃって、神通力が通用しなくなったのが「Gレコ」で、それは富野がどうこうっていう個人レベルの話じゃ無く、例えば同世代同時代の同じく神であった押井守が手掛けた「ぶらどらぶ」が、誰も話題にすらしてくれなかったっていうのにも象徴されてると思うんだけど、もう神様の神通力を失った時代に入ってる。
エンターテイメントの最前線、マーベルのMCU映画だって、最新作の「ソー:ラブ・アンド・サンダー」であったじゃないですか、もはや神が力を失ってしまったって。
それは何故なのかって、映画の冒頭でちゃんと描かれますけど、神様を信じて我々は生きて来たのに、今のこの世の中の惨状、神は人間を救ってなんかくれなかった。
コロナや経済破綻による格差社会、戦争、もう神様なんか信じないぞっていう時代性ですよね。マーベルが偉いのは意図してそういう現代性を作品に入れてきてる所です。個人的にはそこを「ガンダム」には期待してたりするのですが、正直そこまでの意識は感じられないので期待は薄そうなのが残念ポイントではありますが。
で、この辺の部分が冒頭で引用した富野の前書きに重なる。富野由悠季が神だった頃はみんな一生懸命そのお説法を聞いてくれたんですよ。私もその一人でしたし。でも、今はそんな時代じゃ無くなった。それは富野監督個人の力の問題だけじゃなくて、時代の変化だったりするんです。
たった書き出しの3行だけでこれくらい語れます。これが350ページあるんだから、いやどれほど書くことあんだよって自分でも途方に暮れちゃいますよね。
ただ、それを一つ一つ拾っていくのは流石に骨が折れるので、この本で書いてる事を要約して理解した上で、Gレコとは何だったのか的な感じで書いて行こうかなと思います。
一つの時代の終わり、というのは重要なポイントで、GレコはTVシリーズの時から「子供に見てほしい」的な事を最初から訴えかけていた作品です。そのくせ深夜枠での放送で、しかも同時期に「ビルドファイターズ」があるという、サンライズ並びにバンダイ社内での意思疎通が全く取れていないと素人目にもわかる不思議な発表形態でした。
ただ、プラモバトルで一見子供向けに見える「ビルド」シリーズだって、ぶっちゃけおじさん以外は見て無いと思います。あれはあれで一定の手ごたえがあったからこそ、シリーズとして続いているというのはあると思うけど、それこそ「AGE」でやったようなコロコロコミックとかの児童向け媒体で取り上げられるコンテンツかといえば、そうではないですし。
じゃあその「AGE」は子供向けにするに当たって、ガンダムの何を、どの部分をガンダムの魅力のエッセンスとして抽出したのかと言えば、歴史物としての面白さを子供にも伝えたいと考えたわけですよね。AGEのメインプランナーの日野の中でのガンダムの面白さや、商品としての売りはそこだと判断した。だからファースト~逆シャアの流れを一つの作品の中でやろうとした。作中でもキーワードとして使われたけど、MSの「進化」が子供に設けるし、商業上もバリエーション展開がしやすいと考えたのでしょう。ただ、実際の所は子供達にガンダムコンテンツが受け入れる事は無く、結果として失敗に終わってしまったと。
じゃあ「Gレコ」も、子供受けを狙って作った作品なんだけど、それが上手く行かなかったという話なのかと言えば、そう単純なものじゃない。「ビルド」シリーズや「AGE」的な狙いとは全く違うアプローチです。
一時は神とあがめられ、教祖様になった富野由悠季ですが、いざ歳を重ね、自分のキャリアの終わりを想像する年齢になった時に、若い頃は世の中を自分が変えてやるって意気込んでたけど、実際は変えられなかったじゃん。みたいな敗北感が「∀ガンダム」「キングゲイナー」「リーンの翼」「Gレコ」とわかる人にはここは全部テーマが繋がっていて、富野が何をしようとしたのか手に取るように今なら全部が理解できます。
一つ一つ語ってもそれぞれ1万字くらいになっちゃうので、軽く要約すると、「∀」では自分がまいた種を、自分が発端だったからと、刈り取ろうとした、もう自分も歳だしね、店じまいしてしまおうと。だから「黄金の秋」なのでしょう。
続く「キングゲイナー」は宇宙に未来は無かった。もう宇宙を目指す時代じゃないし、だったら新しい国を作るには未開の地を切り開くしかない、土地だけあって人がまだ住んで無いとこはまだ地球にも残ってたりするね、そこはシベリア。「エクソダス、するかい?」という意味では明らかにテーマは同じだし、キンゲはGレコのプロトタイプと言えるでしょう。
じゃあ残りの「リーンの翼」は何かと言えば、どう見たってエイサップ鈴木君より迫水真次郎の物語ですよね。つーか迫水は前作となる元の小説の主人公だし。そこはもう富野本人みたいなもので、その富野の怨念や未練を断ち切る為の話です。ライフワークとまで言ってたバイストン・ウェルの物語にこれで蹴りをつけたと。
こういう流れなんですけど、キンゲの所で触れた、宇宙に未来は無かったという部分、ここが重要。
ポルノグラフィティの「アポロ」って曲にもあるように、1969年に月面着陸が全世界にTV放送されて、富野だって当然それは見てるはず。SF小説やSF映画、手塚治虫の漫画でしか知らなかった宇宙が実際に手に届く現実のものとなり、人類の未来はそこに向かう物、という共通認識があったわけです。当時と言うか、昔は。当たり前だけど、ガンダムだってその流れの延長にある作品。当時の科学誌で発表されたスペースコロニーが、リアルな未来として認識されていた時代。
でも今の現実はどうでしょうか。宇宙開発なんて予算の削減で大概は頓挫。今も勿論細々と続いてはいるけど、スペースコロニーに人間が移住するとか、「思ったより先の未来になりそうだ」とかの話じゃあなくて、「そんな未来はこねーよ」というのが突き付けられてしまいました。ガンダムの未来なんか100年経ったって実現しないのです。そこにリアリティも希望も無くなってしまった。
例えば富野作品なら「重戦機エルガイム」とかも宇宙ですけど、5つの星系を行き来するペンタゴナワールドとか、ファンタジー寄りですよね。ぶっちゃけあれスターウォーズの世界をやろうとしたんでしょうけど、例えば「ガンダム」だとギレンをヒットラーの尻尾呼ばわりしたりと、意図して現実の今の世の中の延長にある未来として描いたのとはまた違う世界に思えるものじゃないでしょうか?
「ガンダム」と「エルガイム」では未来の宇宙の話だけど、ちょっと方向性が違うよね、というのが我々の世代の認識だと思うけど、そもそもアポロ計画も知らなければ、スペースコロニーに人間が住むとか実際ありえないから、という感覚の若者にとって、ガンダムだろうがエルガイムだろうが、どっちも同じファンタジーじゃね?あんたら年寄りは何言ってるの?ガンダムみたいな未来がリアリティあるとか、頭おかしくね?怖いんだけど・・・というのが今の状況なのかと思います。
これは富野が本の中でも高度成長経済の破綻、資本主義のまま突き進んだらその先にに未来は無いっていうのを知ったというのは本人も言ってますし、そこは社会学の上でも「大きな物語の終わり」と、共通認識になってるものです。多分、ガノタは誰も気にして無いと思うけど、「ガンダムUC」とかでもこの問題に触れてる部分もあるんですよ。
この先、スペースコロニーに人間が住む世界は来ない。でもそこを前提としたガンダムをこのまま続けていたって、そりゃあ若者は興味持ってくれないでしょう?自分達の現実の未来じゃないんだから。
だったらちゃんと今の時代や、これからの未来に向き合って、子供達が自分達の未来はどうなっていくのかな?に向き合うような作品を提示してあげなければいけない。そういう考えの上で作られているのが「Gのレコンギスタ」という作品です。・・・というような事をこの本では富野が語ってます。
エルガイムの流れで言えば、私は永野護そんなに詳しくないけれど、数年前に「ファイブスター物語」で、何十年やってきたMH(モーターヘッド)のデザインを全部捨てて、これからはGM(ゴティックメード)でやる、というちょっとビックリする事をやったんですよね?
理由としては、MHは当時の最先端のデザインをやってたけど、今の時代とは違う。自分がやりたいのは、その時代の最先端。30年前のデザインを微妙なアップデートだけでやり続けるのには無理がある。だから根本から全部変えてしまいます。という事だったはず。多分。
流石は師匠と弟子の関係。全く同じ思想とは言わないけれど、富野もGレコで似たような事をやろうとしたわけです。それはMSのデザインと言うより、ガンダムの世界観や思想そのものを一新する、という意味でです。
「子供達に見てほしい」というのは、マーケティングの上で子供に狙いを定めた「AGE」や「ビルド」シリーズとはまた別の意味ですし、若者に向けた「バズリ文化」に狙いを定めた「水星の魔女」とも全く違う流れでの「子供向け」=時代の変化に合わせたアップデートなのだと理解してないと、富野は何を言ってるんだ?となってしまいがちです。というかちょっと前の私がそうでした。
一応行っておくけど、そんな「Gレコ」の考え方こそが正しくて、他の作品の考え方が浅いとか間違ってるとかそういう事じゃないぞ。「ビルド」も「AGE」も「水星」もそれぞれ違うアプローチをしている、それぞれに価値があるものなのは理解してほしい。
スペースコロニーがリアルじゃないなら、じゃあもっと現実的なものって何よ?という発想が軌道エレベーターです。コロニーと並んで昔からこれもメジャーな存在ですし、私の中では軌道エレベーターと言えば「テッカマンブレード」のオービタルリングだったりするんですけど、ガンダム的には当然「00」でしょう。年号も西暦の延長とされた世界観でしたし、技術的にはスペースコロニーよりも軌道エレベーターの方がまだ現実的なんだそうです(私は詳しくないので実際の所は知りませんが)
流石「OO」は目の付けどころが違います。富野も、2番手になっちゃうけどこっちの方が現実的ならこれを採用しようと「Gレコ」でも軌道エレベーターが物語の起点になりました。これなら現実の延長としてありえそうだ、子供達の未来はコロニーよりもここにあるんだと。
でも調べてる内にふと思ったそうです。そもそも何の為に軌道エレベーターを建設するの?宇宙に行くのはいいけど、宇宙行ったって何もなくね?そもそも宇宙空間なんて何もない所なのに、なんでそこを目指すの?ガンダムの世界では木星へはヘリウムガスの資源採掘に行くとか、ルナチタニウム=ガンダリウム(であってます?)とか、宇宙には地球に無い資源があるんですよって捏造したけど、実際の所は宇宙空間に資源なんか眠って無い。だから水も空気も土地もあるシベリアを開拓しようって「キングゲイナー」でやったばっかじゃん。
何も無い宇宙を目指す理由が無い。考えられるのは「観光」くらい。でも、観光を目的とした施設で地球規模の工事が必要になる軌道エレベーター建てるわけないじゃん。
と言う事は・・・軌道エレベーターも実は全くリアルなものなんかじゃ無かった。現実にはありえないものだって準備し始めてから気がついたって言うくだりは爆笑ものです。理論的に建造は可能とされるが、実際にそれを作るメリットや国家規模の計画は無い。
私、この本を読むまで全然気付いて無かったんですけど、Gレコ世界の軌道エレベーターって「キャピタルタワー」って呼ばれてますよね。キャピタリズム=資本主義のキャピタルだって言われて初めて、あ!ってなった。・・・うん、いやこれだからガンダム脳は困ります。
もし現実に軌道エレベータを作った所で、それは観光や実験場にしかならないけど、資本主義の中心としてこのGレコの世界では据え置かなければならない。それがフォトンエネルギーとか水の玉みたいな嘘っぱちの圧縮技術が、宇宙からもたらされてこの世界の経済は成り立っているという世界設定。
それは、過去のガンダムにおいてモビルスーツという嘘っぱちのものを成立させるために「ミノフスキー粒子」なる架空の嘘理論をでっちあげたのと同じような事です。
そこで持ってきたのがフォトンエネルギーってちょっと面白くないですか?フォトンって何かと言えば、光子力です。そう、光子力研究所で生みだされた「マジンガーZ」と同じエネルギーです。原点回帰という所でしょうか?
とまあ、そんな感じで、次世代にバカにされないような世界設定を1から組み直した。それが「Gレコ」という作品の正体で、逆に言ってしまえば、そんな世界観こそが作品を通して表現したい事、伝えたい事になってしまっているのが、ある種の足枷にもなってしまったと私は思う。
基本、男女ペアで配置している富野のキャラクターの置き方はこの本の中でも自分で語ってますけど、そこで描かれるドラマが面白いものであれば、作品そのものが上手く行くという、富野の悪い癖が出てしまっているのも問題。
「弾が無くなっちゃったのよぉ~っ!」っていう「イデオン」のバンダ・ロッタの頃から富野の演出は本当に神がかってます。それは「Gレコ」までずっと続いてる、富野作品の最高に面白い部分。細部の富野演出は誰も真似できないレベルだと思います。
演出家としては最高。でもプロデューサーじゃないんですよね、富野って。1話から最終話までのプロットの立て方、全体通してのストーリーの面白さという意味では3流。無理矢理ラスボスっぽいのを途中から立てて、それを倒してなんとなく終わりにしてしまうようなケースも多数。
子供達に向けているのは、世界観と言う一見非常にわかりにくい部分ですし、富野セリフや富野演出というミクロな面白さはあっても、見せたいのはそれこそタワーとかクレッセントシップとかビーナスグロウブとかのビジュアルだから、ぶっちゃけ「不思議なもの」としてしか大半の人には目に映らない。
だから大半の人はGレコに「???」ってなっちゃうだけだし、富野信者はミクロな富野演出だけ見て満足して、いやGレコ面白いでしょ?ってなってるのでしょう、きっと。
Gレコ、やっとやっとストンと腑に落ちました。
そうか、Gレコとはこういう事だったのか、という感じです。
Gレコよくわからなかったけど、もう少し踏み込んでみたいという人は攻略本としてこの本は必須。これを読んだ上で、更にTV版、映画版どちらも再挑戦すると、恐らくは面白さは更に120%増しになると思われます。Gレコを語る上での必読書。
私も再度見返したくなりましたが、何分あちこちに手を出して忙しいので、とりあえず数年は寝かせてからになりそう。
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