MOBILE SUIT GUNDAM III
総監督・原作:富野喜幸
日本映画 1982年
☆☆☆☆☆
劇場版ファーストガンダム3部作完結編。
ガンダムシネマフェスのおかげで、初めて劇場のスクリーンで見る事が出来ました。「哀戦士」を地元の山形で見た時も、今回の宮城遠征で見た時も、見終わった後に、当時以来何十年ぶりに映画館で見れたよ、って他のお客さんの声が上映後の帰り際に聞こえてきて、他人事ながらそこもなんかちょっと感動してしまった。生きてるって素晴らしいです。
それらの人の感覚がどうなのかは知るよしもありませんし、これを「なつかしコンテンツ」として楽しんでるのかもしれません。それはそれで全然構わないし、私がどうこう言うものでもありませんが、私個人としてはそういう感情や、そういう消費の仕方はどちらかというと否定的で「これ子供の頃に見てたんだけど懐かしいな」っていうの、私はあんまり好きじゃ無かったりする。
ただの懐かしさ、ただのノスタルジーも別に悪くはないですが、今の視点でその昔のものにどう向き合うかっていうのが私は好きなんですね。子供の頃に見てたこれ、今見るとこういう作品だったんだなって大人になってまた別の視点で見れたよ、みたいなのが私は好きで、それはその作品がどれくらいの強度を持っているか、みたいなのが感じられるのが好きなんです。
勿論、私の中でもノスタルジーだけで終わる作品もありますよ。子供の頃は夢中になったこれだけど、流石に今の視点で見ると色々と粗もあるし、今も同じ熱量になれるかというと無理だなってものは当然ある。それはそれで別の楽しみ方をすれば良いけど、古い映画で自分が生まれる前の50年前のものだってあるわけじゃないですか、それこそ私が愛する「ナイトオブザリビングデッド」みたいな作品とかね。それが今見ても、今の作品にまったくひけをとらない作品としての強度がちゃんと保たれてるものって、やっぱり凄いしそこに私は物凄く惹かれるんですよね。このファーストガンダムだってそうですし。
そういうのがあるから、今の新しい今好きな物に対しても、これが50年後もノスタルジー以上の価値がちゃんとあるものなのか、ただの一過性のブームで、消費されて終わるだけのものなのか、そういう視点で物事を判断する癖が身についてます。文化背景、社会背景も含めた視点についついなってしまって、そこは「普通の人」とは落差が出てしまいがちです。
1の感想に書いたけど、あとはあなたたちの洞察力に期待しますってラストで終わって、後の「ZZ」とかでは子供はみんなニュータイプとか言ってたわけじゃないですか。自分もその辺りの世代だったわけですし。
そっから実際に40年経って、あの時子供だった人達が社会の中核を担う存在になったのが今の時代ですよ?社会は、そして我々はニュータイプに革新出来たのか?って話ですよね。この現実の中で。
私がまだ子供だった頃、若者だった頃はそんな風に思ってなかったし、カミーユやジュドーじゃないけど、「おとなたちはぁっ!」って怒ってました。でもね、流石にもう若者とは言いきれない中年のおっさんになった今ですよ。あれから40年過ぎた今、新人類と言われた世代が何を成し得たのか?という視点でガンダムを語っても良いと思うんですよね。
富野監督自身はそこはもう思考が次のステップに進んでる中、いつまで私らはこうして過去にしがみついてんのかと。いや改めて見返してみてもやっぱり作品としては最高なんですけど。
私はファースト原理主義者じゃなく、「Z」のニヒリズムみたいなものも昔から好きで、希望を描いたファーストの続きが、現実はそう上手くはいかないよねっていう現実認識の物語になっている所に落胆では無くむしろ惹かれた方です。
かと言って、ファーストガンダムの希望なんて綺麗事じゃん。現実的ではないよね、なんて否定すべきかと言えば別にそんな風には思わない。これはこれ、それはそれっていう割り切りなんじゃないかと思うんですよね。
どんなものにだって良い面と悪い面の両方がある。それはこの世のありとあらゆるもの全てにおいてです。私自身も若い頃は富野に心酔してね、富野信者になってた頃があるんですが、もうちょい大人になって、ちゃんと自分で勉強して、受け売りでは無い自分の意見を持てるようになると、富野監督素晴らしいけど、間違ってるとこもあるし、良い面悪い面両方あるな、と気付いて、信者的な感覚では無く俯瞰で物事を判断して、尊敬する人物では無く、面白いおじいちゃん的な感覚で見るように変化していきました。
それはアムロやシャアに対しても同じです。よくね、大人になって見返したらブライトさんの気持ちがわかるようになったとかあるじゃないですか。しかも設定的にはファーストの時点でまだ10代とかだし、アムロと同じくまだ若者の部類なのにあのポジションでさそかし大変だっただろう、みたいなね。
そういうのがあるから、昔の作品を昔の気持ちに戻って楽しむというだけではなく、年齢や経験を重ねた今の自分が見た時に見えてくるもの、みたいなものを大事にしたいなと私は思うのです。
よく、映画でも本でも何でも良いけど、一度見終わってストーリーがどうなるか知ってるのに、二度三度観る人の気持ちがわからないって人、居ますよね。映画の話をダイジェストにしたファスト映画や、早送りで見る人なんかも もしかしてそうなのかもしれない。そういう人達は、ストーリーしか見ていないんでしょう。話がこう転がって結末はこうなる。全部知ってたらもう見る必要無くない?
そういう人はそうなんでしょう。でもそうじゃない、作品から何を読みとれるのかをこっちは見てるわけで、ストーリー「だけ」を見てるわけじゃないから、この情報の洪水から何をすくい取るかって話ですし、それこそ年齢や経験で見えてくる景色が違うって当然です。ただぼーっと画面を眺めてるわけじゃない。「見る」んじゃなく「観る」。観察をして読みとる作業をしている。
アニメと言う一見単純化されて記号となったものでありながら、一筋縄ではいかない情報量の多さと深さ。そしてその海で溺れる心地良さ。これが富野作品の面白さだよな、というのを存分に味わって来ました。
いやだってさぁ、例えばの話ですけど
「守るべきものが無ければ戦ってはいけないのか」
「それは不自然なのよ」っていう会話一つで、いくらでも掘り下げられると思いません?こういうのが無限にあるんだもの、楽しくって仕方ない。
「本当の敵はザビ家ではないのか?」って言わせておいて、ギレンとかキシリアを撃つのは主人公のアムロじゃないんですよ?(ドズル倒したのはアムロだけども)それってどういう意味だと思います?とか、いくらでも語り明かせる。
自分の「好き」というフィルターがかかってるのは重々承知ですが、今見ても全く古さを感じないし、もうマスターピースもマスターピース。永遠に輝き続ける本物の名作っていうのを改めて感じられて、こんなに嬉しい事は無いです。
欲を言えば、ガンダムでは無いけれど「イデオン」発動編も死ぬまでにはスクリーンで一度見てみたいものです。
いやなんか抽象的な事ばっかで、全然ガンダム感想っぽくない感じになってしまいましたが、ファーストを語る機会なんていくらでもあるでしょうから、今回はこんな感じで。
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