オーケン曰く「ひとまず最後のエッセイ集」
日常にあふれる、思い出し笑いを拾い集めて四半世紀
なんていうんでしょうか、自分が、
ずっと続いている身辺雑記エッセイの、
主体というよりは、そのキャラクターになってしまっていて、
ウッカリしたりチャッカリしたり・・・(本分より)
大槻ケンヂの2015年のエッセイ集。
デビュー以来ずっとエッセイを書き続けてきたけど、これで最後にします的な事を言ってますが、2025年現在、今でも普通に書き続けて定期的に新刊も出てます。
筋肉少女帯のバンドが復活して、表現は曲でするのが一番良い、みたいな感じになって、その後「小説」の方はほぼ発表しなくなったのですが、おそらくはそんな流れで定期的に連載・刊行していたエッセイの方も一区切りつけようかなとなったと思われる。フォークギターとかもこの辺りからやるようになったし、自分の軸足をちょっと考えよう的な感じ?「人として軸がブレている」とか歌ってた人ですし。
私は中学生の頃に当時の友達が筋肉少女帯のCD(月光蟲)を貸してくれて、それ以降、その世界にドップりとハマって、オーケンのエッセイなんかも買い漁るようになって、その思考なんかに凄く影響を受けた言わばオーケンチルドレンなのですが(ブログタイトルもオーケンの昔のエッセイタイトルのパク・・・もとい引用だったりします)、離れちゃったのはいつごろだったかな?
参加していたNPOの企画で、大学生に混ざって卒業論文を書く、みたいな企画と言うか講座に参加して、私はオーケンは何を表現しているのか的なテーマで書きました。論文とは何かすらわかってなかったし、数年後にPCにデータ残ってるのを発見して読み返した所、正直何を言ってるか全然で、凄くレベルの低いものでしかなかったのですが(昔のPCとかなのでデータはもう残って無い)今思えば私にとってはそこがファンとしてはピークだったように思います。大した論文では無いけど、自分なりにケリがついてしまったというか。
今でも勿論好きですが、出す物全部を追いかけたりは流石にしてない。論文を書いた時点では正直まだよくわかってなかった気がしますが、後に別のエッセイ集「サブカルで食う 就職せず好きなことだけをやって生きていく方法」(2012)で、ライムスター宇多丸氏と対談している中で、自分の中にはアカデミックな部分が無いので、明確な理由やロジックでは説明できない。だからそういうのは宇多丸さんに言語化してほしい的な事を言ってたと思います。
逆にこの頃は映画関係でライムスター宇多丸と当時はまだ「アトロク」前で「ウィークエンドシャッフル」の時代だったかな?映画に限らずサブカル全体のアカデミックな視点での読み解きとかはもう色々やっていた時期のはず。いや宇多丸さんもシネマハスラーの初期は大衆向けのクソ映画をこき下ろすみたいなまさに当たり屋稼業みたいな感じでしたが、そういうの大人げないし逆に時間の無駄だよねって、本格的な映画批評とかに段々とシフトしていったりはしてますが。
ゼミでの大学卒業論文は上手く書けませんでしたが、逆にそういうのが切っ掛けにもなり、宇多丸さんのカルチャー掘り下げとかも含め、ちゃんとしたアカデミックな知識や論理が無いものって、価値としては1段下の感じなんだなと。「それってあなたの感想ですよね」で終わらない何かしらの根拠・論拠みたいなものが必要なんだなと。そんな風に思うようになっていった気がします。
例えばミリオンヒットのアーティスト、いや今だとフォロワー数何万人とかのインフルエンサーとかになるのかな?そういう人がさ、「いじめられる側にも問題があるんだよね」だとか「外国人労働者が問題起こす事が多いよね」とか、専門的な知識も信用出来るデータもなくて、その人の感情や感覚だけで簡単に発言したり、逆にそういうインフルエンサーの言葉を真に受けたりするのって物凄く危険な事で、まさにそういうのがメディアリテラシーというやつですよね。
そう言うと、自由に発言も出来ない息苦しい世の中だとか言いかねませんが、そこに根拠も何も無く、自分の言葉がどう広がるか想像も出来ない輩がインフルエンサーであって良いわけが無いし、受け取る側も「人気者だけどただの知識も無い専門外の素人意見」程度に受け止めなきゃヤバい事になる。
私が子供の頃から、言ってしまえば思春期の頃から言葉を受け取って物凄い影響を受けてきた「大槻ケンヂ」という教祖様にはアカデミックな理論なんか存在しなかった、というのに自分で気付いたからこそ気持ち的に少し離れてしまった部分。
それでも逆にオーケンの良い所はね、自分にはそういう知識が無いからわからないです教えて下さい、って歳下のライムスター宇多丸に正直に言える所。専門家批評家ぶらない所です。
いやオカルトとかUFOに関しては専門家だけど。
それは私にとっての「富野由悠季」とかもそう、かつては当人の言う事は全て信じるような、まさに「信者」でしたが、もっと多角的な視点や知識を手に入れ、芸能人やクリエーター、作家とか好きな憧れの人に対しても、言ってしまえば親とかに対してもそうでしたが、人生の先輩ではあるけれど、この部分に関しては自分の方がずっと勉強もしてるし見識も深い、きとんと物事をロジカルに考えた時に、この意見はどこまで筋が通ってるだろうか?とか、ただ鵜呑みにするのではなく自分で判断できるようになりました。
勿論、全能な人間なんて居ませんし、この部分に関しては、この件に関してはとか一つ一つの例によって全部違うけれど、崇拝するような視点だと、物事はきっとその一面しか見えなくなって、多角的に物事を捉えられなくなるはず。
って、オーケンのエッセイからはかけ離れた話になってしまいましたが、そういう前提があった上で読む分には、全然面白いのです。
オーケンがUFOに対して、肯定派でも否定派でもなく、それを見守って楽しむ派なのと同じように、オーケンを肯定でも否定でも無くおおこんな視点があったのか、まさしくパララックスビューという感じで面白がってしまえばいい。好き=盲目的な信者になるだけが好きの形では無いはず。
10年以上前のエッセイですし、当然話題も当時の事ですがオーケンがその当時に凄く衝撃を受けたと言う曲
Negicco / アイドルばかり聴かないで
www.youtube.comアイドル本人に、アイドルとか聞いてる奴キモイし、早く卒業しないとお前の未来はお先真っ暗だよ、的な事をアイドル当事者に歌わせてると。勿論、本人の作詞とかでは無く小西康陽氏プロデュース。お前らざんね~ん!というのは流石に悪趣味が過ぎるのではないかと。
PVの概要欄には「アイドルファンのボーイフレンドを持つ女の子のもどかしさをキュートに歌った楽曲。」とか書いてあるけど、エッセイではそういう解釈は一切して無い。
で「お仕事でやってるだけかもよ」「マニュアルではめてるだけかもよ」とか言ってるのにね。
それこそオーケンのエッセイを中学生の頃から読み漁ってきた私としては、割と後の方になってからの言葉ではあるけれど、クラス40人中、メジャーなものに馴染めない一人か二人は中に居るはず。クラスで一人なら、学年で5人、学校で15人、その街なら30人40人と居る。そこを狙った今で言うマーケティング的な部分で商売できるだろうという意図はありましたよ的な事をオーケン本人が言ってました。
でもそれって、自分もそこに居たから、同じような人も居るはずだっていう結構純粋な視点なんですよね。彼らのサーチライトになりたかったっていうのは正直な気持ちだと思うし。
商売でやってるだけですよ、とは言いつつそこに本心は見え隠れする辺りは憎めない。
でもアイドルうんぬんは、ねぎっこちゃん本人でも無ければ、それを歌わせてる小西康陽氏に対して、ファンをバカにするとかそれは流石に踏み越えたらまずいラインじゃないの?的な感覚なのかなと。
そこに対して、いつかアンサーソングを作りたいとオーケンは言う。
いやもう過去に作った自分の曲の中でもうあるか、と例に挙げたのが
「そして人生は続く」
www.youtube.com老年期に入ってからようやく報われるという、当時の筋少にしては珍しいハッピーエンドソング。(基本が暗い歌ばっかだったので珍しかった)
オーケンチルドレンでニヒリストをそこから受け付けられた身としてはそんなに上手く行かねーよ、と思いつつ、やはり悪い気分はしない。
因みにタイトルはアッバス・キアロスタミの映画の引用。(オーケンが引用してるんだから私もオーケンから引用しても問題あるまい)
でもね、どんな事でも、他人から何それって思われるような事でも10年続けてみなさい。そこまでやれば、それはそれでってきっと認められるようになるから、というオーケンの言葉を私はずっと信じつづけてきた気はします。
その辺りは同じくオーケンフォロワーだったポワロというバンドが拾ってくれて曲にしてくれてたりもする
「プライド・オブ・アンダーグラウンド」
アカデミックな根拠のないものを無責任に言ってしまうのはいかがなものか?
と私は先に言いました。
でも、そんな根拠も無いオーケンの言葉や考え方を信じてきて良かったよ、と思える部分もあるんだよ。このブログだってそう。沢山の人に届くものではないのは承知してる。でもクラスの40分の1にだけかもしれないけど、私の書く物を面白がってくれる人が居るんじゃないかと、そこは信じてます。
そして人生は続いていくのだから。
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