著:富野由悠季
刊:角川書店 スニーカー文庫
2000年(初出1997年)
☆☆☆☆☆
「ジークアクス」ついでにこちらも再読。
要はあのキラキラ空間で何が起きていたのか?というのをジークアクスなりに解き明かすものだと思っていたので(読み始めたのは最終回より少し前からです)じゃあまさしくその瞬間を描いたこの「密会」が原点かなと読み返す。
実際の所はジークアクスなんてファーストガンダムとはかけ離れたニセモノガンダムの話でしかありませんでしたが。
あとジークアクスついでにニュータイプについて一つだけ言わせて下さい。なんか近年になってようやく極一部の人からは出るようになったけど、ニュータイプなんて考え方はもう古臭いよね、失敗した革命だよね、という認識が出るようになったのって、ホントにここ数年な印象。私もこの辺りの事はよく言うので、同じような考えの人もちゃんと居るんだと思えるのは嬉しいものです。
「ジークアクス」や「水星の魔女」のおかげで、原点の初代ガンダムを履修して見た的な流れが、youtubeなんかでは凄く多くて、そこは有難いし凄く嬉しいのですが、そうか将来こうしてニュータイプに進化していくみたいなのがテーマとしてあるんだね的な感想をよく見かけます。
初見の感想でそれは正しいし、そこに対して間違っているとかそういう事を言いたいわけではありません。もう全然アリですし、リアルタイムでガンダムを見た人、話を理解出来ないながらも子供時代にガンダムを通ってきた人、40年前はみんなそんな風に思ってたはずです。作り手もそこに期待したはずだし、私もアラフォーで最初はSDガンダムとかから入って、そこからまだ若かった頃にリアルガンダムも履修して頭の固い大人達を自分達の新しい世代がまさしくニュータイプとして世の中を変えていくんだって思ってました。
でも45年前の最初のガンダムを見て育った世代が作ったのが今のクソみたいな世の中なんですよ。ニュータイプなんて生まれてこなかったの。人類の革新なんてこないし、テクノロジーだけは発展したけど、じゃあそこで人間が良い方向に進化したと思う?私は思わないです。
もう私は若者では無いし、そっち側の世代として今の若い人たちに本当に申し訳ないなと思うし、私自身も就職氷河期時代、所謂失われた時代のロストジェネレーションで、巻き込まれた方とも言えるけど、もうよい歳して、これからニュータイプに進化していくんだ的な事は恥ずかしくってもう言えないのです。
で、ずっとガンダムを負い続けてきた重度のガノタとしては、そこら辺の流れと言うのはもうガンダムシリーズの作品の中に組み込まれて描かれている部分で、それこそ原作者とでも言うべき富野由悠季は、もうニュータイプなんて昔の事いつまでも言って無いで、次の世代の事を考えなさいよって発想を切り替えてるし(NTを過去にした「F91」や「Vガン」、次を見据えた「Gレコ」)「クロスボーンガンダム」を描いてる長谷川裕一先生も、「Vガンダム外伝」とかで「NTなんてもう過去の価値感でしか無いのかもしれないな」ってセリフで言わせてるし、TVシリーズの「ガンダムX」なんてまさにそこをテーマにした作品で、過去に縛られている人間に未来は作れない、という答えを出している。
そんな流れがとっくの昔の20年も前から何度も描かれてるのに、今更鶴巻監督なり庵野監督とか老人がしゃしゃり出てきて、ニュータイプとは?みたいな事を今更やってるグロテスクさとバカバカしさは認識しておいてほしい。
一応、最終回まで見た流れで考えればマチュとなニャアンの新世代は古い物が一瞬カッコ良く見えてそこに憧れたけど、実際は大したこと無かったね、もう自分達の道を行く事にするわ、と言えなくもない描き方ではあったので、その辺りはちょっと考えて欲しい所ではある。
単純に過去の遺物を面白がったり、その失敗の歴史を学んだりする事は決して悪いことでは無いと思うのだけれど。
さてジークアクスの話は置いといて「密会」
ああ、言い忘れた、アムロとシャアとララァの3人の関係にマチュ、ニャアン、シュウジの3人を重ねてあるのかと思ったけど、二人に惹かれるララァ=シュウジなのかと言えば、シュウジのララァに対する粘着もありつつ、ガンダムに乗るアムロのようでもあるわけで、じゃあ単純にマチュ=アムロでもなければ、ニャアン=シャアでも無いし、新世代がただのコピーで作られたキャラでは無かったのは評価出来る部分だとは思う。
密会に戻ろう。
作品としてはリアルタイムでのファーストガンダムのノベライズは、アニメとは全く違う事で有名な「小説版ガンダム」3部作。富野自身の手によるものが一つ。
それの他に普通のジュニア向けノベルスみたいな感じで、TV版をフラットにノベライズ化したもので中根真明版というのがあります。私はそこでシン少尉というジムのネームドパイロットが居るのを知りました。ビグザムに焼かれるパイロットで、プラモのジムの箱絵にも描かれてるので、元からきっと設定はあったのでしょう。再販や復刻が出て無いのでマイナーな部類。
「密会」のスニーカー文庫版には、前に自分で書いた小説版はアニメとは別物だったので、読者が混乱しないようにアニメ基準のファーストガンダムがあっても良いのではないか?と思って依頼を受けたとか書いてあります。
ただ、文庫の前に初出があって文庫のさらに半分くらいの小さいサイズで、角川mini文庫というのが発刊される事になり、角川から声がかかったのでその企画に乗ったという形だと思われますが、多分アニメ雑誌のニュータイプの編集長から角川の社長にまで登り詰めた井上伸一郎がどっかのタイミングで富野にお願いしたのでしょう。その顔を立てる部分もあったし、97年ごろは富野はガンダムから一度離れて、他のクリエイターがガンダムを動かしてた時期で、その言動とは裏腹に自分の手からガンダムが離れていく寂しさもあったのでしょう。そういう所も想像すると面白いです。
物語的にはアニメの導入から入るのではなく、いきなりララァ視点から始まり、そこからアムロとの関係を積み重ねていく中で、アムロの回想でそこまでの流れがちょこっと説明的に入る感じ。
「ジークアクス」でも描かれてましたが、カバルという娼館でララァは働かされていたという設定はこの「密会」から拾ったもののはず。(元からの小説版にもあったっけ?)
因みに「ジ・オリジン」ではこの設定を拾わず別の形でララァとシャアの出会いはアレンジしてあるのでその辺りはパラレル的なものだと思っておけば良いかと。
で、その娼婦仕事、別にララァは嫌な仕事だと思って無かったし、無理矢理働かされて悲惨な目にあっているという描き方をしてない辺りが富野らしい。
娼館で働かされていたなんて言うと、ネガティブな感情をつい想像してしまいます。それこそ「ユニコーン」で描かれたマリーダさんの悲惨な過去みたいに。
これをね、男性に献身的になってくれる聖母のような精神なのかと言えば全然そうじゃない。逆シャアの最後の「ララァは私の母になってくれたかもしれない女性だ」の流れで言えば、シャアにとってはそういう要素があったのかもしれないけれど、それはあくまでシャアの視点であって、決してララァがそういうキャラクターだったというわけではない。
アムロの夢の中で出てきたララァもそうでしたが、私は二人の行く末を見たいだけよ、みたいな、普通に考えると「は?」ってなってしまうような描き方をされてる。
そもそもね、密会って何か、アムロとララァのあのキラキラ空間って、あれようするに不倫現場って事ですよね。だからそれを見たシャアは「奴との戯言はやめろ」って言うの。
どうでしょう?昔「不倫は文化だ」なんて言う人も居ましたし、人によって感覚は違うのかもしれませんが、私は「不倫」ってあんまり良いイメージはもてない言葉です。
でも、そうやって「聖女」でも「聖母」でも「子供」でも「悪女」でも無い、なんか変な所を持った「よくわからない人間」としてララァを描くこの面白さ。アニメキャラでこんなん普通やらないと思うんだけど、そこを普通とは違う捻り・ツイストとして描くんじゃなくて、だって人間ってそういうものでしょ?という感覚で描いてるのが凄い。
このキラキラ空間って、一見魂が繋がったように見えて、アムロもララァもシャアも理解・認識してる事が違うんですよ。このまるで会話が成立してるようでして無い富野ゼリフみたいな感じですよね。ここがメチャメチャ面白い。
そして、私は、昔から大好きなシーンというかセリフの応酬があるんですけど、
「何故あなたはこうも戦えるの?あなたには守るべき人も守るべきものも無いと言うのに」
「守るべきものが無い?」
「私には見える、あなたの中には家族も故郷も無いというのに」
「守るべきものが無くては戦ってはいけないのか?」
「それは不自然なのよ」
「ではララァはなんだ?」
「私は救ってくれた人の為に戦っているわ」
「たった・・・それだけの為に?」
「それは生きる為の真理よ」
ここ、昔からすっごい好きでね。
物語のスタートから色々失って行ったアムロが全て失ったと思っていたらホワイトベースと言う家族が居たというラストに繋がる流れもそうですし、フワフワした感覚で生きてるように思えるララァがロジックで物事を見ているという部分が、クッソ面白くて好きだ。
『哀戦士』の歌詞じゃないけれど、人は何をかけて戦うのか。ララァの最後の瞬間だって、「いけません大佐」「アルテイシアか!?」と自分の妹の命をもし奪ってしまえばその傷は一生抱えてしまう、だったら今自分が犠牲になってでも止めた方が良い、という感じなのかなと解釈。瞬間的にシャアの命を救ったというより、唯一の肉親である妹を手に欠ける事などあってはならないというロジックなのかなと。
え?それ不倫じゃん。それで心がなびいたりするのは倫理的にどうなの?なんて風に思う部分もありつつ、普通に優しい心や倫理観もあったりするこの複雑な描き方。流石は富野!他に誰もやらない事を平然とやってのける!そこに痺れる憧れる!って感じですよ。
この誰も経とりつけない境地にある富野センスに負けないものが安彦解釈の「ジ・オリジン」だったり、語り直しをしようとした「ジークアクス」にあると思うのか!君は!
ジークアクスの最後って小説版ガンダムの「セイラはもう一人で自在に泳げるのだ。」という締め方ののオマージュなんですけど、「密会」の最後は
ジオンと連邦の戦争ののち、一個の人の体験を敷衍する術を獲得できない人間は、
ニュータイプの時代という認識はない。
そうはならないという悲観論もなかったが、密会は密会のままなのかもしれない・・・・・・。
し、痺れる。
哀しいな、人間は。
リアルタイムでの熱もまた本物だったと思うし、そこに価値や意味が無かったなんて絶対に言わないけれど、残照というかね、もう夏は終わったのだ的なこの後年になってからの描き直しだからこそ感じられる部分も、物凄くグッと来るものがあります。
いや面白いな。それこそ小説版ガンダムとか、他のも含めて全部読み返したいくらい。1日1000時間くらいあれば良いのにね。働く時間は今のままで。
あとアムロのSM趣味は富野本人の性癖を合わせてるんだろうけど(だから僕はで普通にその辺の癖は語ってたはず)15くらいの少年の性癖でSMに目覚めるってどうなの?自分を捨てた母親に対する感情の吐き出し口みたいな感じかなとも思うけど、(女性を否定したいけどみたいな事は書いてある)まだ童貞のアムロが女性に対する性癖だから逆に幻想が大きい部分もあるのでしょうか。年相応にマスターベーションをたしなむ年齢になったのに、ノックも無しでずけずけと人の家に入り込んでくるフラウにうんざりしているとかはちょっとフフってなるけれど。
他にもねぇ、アムロが最初にガンダムを見た時の描写で
「釈迦の涅槃の図だ」
って言ったり、
「ギレンは、今大戦のあと、公国の名前をギレンにするつもりなのだが、キシリアはそれは軽率だと考えている。」
だったりスレッガーの死を目撃して
「そんなずっと年上の青年がミライによせる心があったなど、アムロには想像できない」とか、細部でも面白い描写が沢山。
そして文庫版の帯に、あの忌まわしき音声パートのみをリメイクした劇場版ガンダム「特別版」の宣伝が入ってて、この語り直しとその否定みたいな歴史が改めて面白いなと感じる。作品論とはまた別の形でいつかまとめてみるのも面白そうです。
ガンダムってファーストの時点でTV版と映画版と小説版でパラレルな物語になってる。そしてそれ以降も否定と肯定と語り直しとリメイクとかもう延々と何十回も繰り返されてる。それこそ「DVD特別版」なんて富野本人が指揮をとって音声を作り直したものなのに、こんなの俺達が知ってる、俺達が好きなガンダムじゃない!って、神=オリジナルクリエイターでさえも否定しちゃうんですよ?この部分すっごい面白いですよね。
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