原題:JOKER
監督・脚本・制作:トッド・フィリップス
脚本:スコット・シルヴァー
原作:DC COMICS
アメリカ映画 2019年
☆☆☆☆★
続編「ジョカー:フォリ・ア・ドゥ」本日より公開スタート。
本国では批評家からも観客からも低評価の嵐らしいですが、まあそんなの気にせず自分の視点で見たい所です。
その前に1作目を復習。劇場公開時に1度は見てますので今回が二度目。
ジョーカーと言えばやっぱりみんな大好き「ダークナイト」のヒース・レジャー。アメコミファン以外の人がやたら食いついた作品なので、逆にコミックファンとしては複雑な心境の映画ですが、勿論名作である事に変わりは無いし、ヒース版ジョーカーのインパクトは十分すぎるくらいのものは確かにありました。
その「ダークナイト」の衝撃がありながら、いやむしろそこで知名度が上がったのも大きいのでしょうか、有名キャラの人気にあやかった2番煎じになりそうな所を、きっちりこれはこれで、ある意味ダークナイト以上に評価されたのは単純に驚かされます。
ただ私的には先日書いた通り、この「ジョーカー」を見た後に、元ネタである「キングオブコメディ」を見て、あれ?これってほぼパクリというか原作みたいなものじゃん!しかもジョーカーよりパプキンの方が私は怖いし、映画としてもちょっとレベルが違う。と思って評価がダダ下がりしたんですよね。私の中ではそこで終わってました。
で、今回その時以来見返したのですが、思った以上にジョーカーはジョーカーで単発として成立してたっぽい。
やっぱり格差社会という時代背景が大きいと思うし、いわゆるスーパーヒーロー映画ブームの中で(ここ2~3年ですっかり衰退しましたが)ジョーカーというヴィランをヒーローとして描くというのがピタッとハマったんだなと。
ヒーローと対峙するヴィランとしてのカッコよさではなく、ヴィランそのものを単体として成立させるカッコよさが世間的には新鮮だったんだと思う。
やっぱり私はジョーカーとキングオブコメディのパプキンを比較したら、パプキンの方が遥かに恐ろしい存在だと思う。でもそうじゃないんですよね。ジョーカーは怖さでは無く逆の描き方をしてて、ジョーカーとなるアーサーに感情移入させる作りにしてある。同情を誘う描き方でした。
人殺しを肯定は出来ないけど、情状酌量の余地がある。アーサーは可哀相な奴なんだよ。どうしようもない状況に陥って、ある意味闇に落ちてしまった人なんだと。
ええと、これがもしコミックのジョーカーなら、最後にどうだ?泣けるでしょ?全部嘘だよーン!児童虐待受けた奴なら犯罪起こしても大丈夫だよね?ギャハハハ!
ってなるやつです。
多分、この映画でも、嘘が真かあえてわからなくしてるし、そこは自由に解釈してもらえるように作りました。と答えるはず。
ラストカットのとこ、アーカムに収容されてましたが、捕まるシーンは描かれて無いし、本編の事が本当にあった上でその後捕まってしまったという解釈と、最初からアーカムでジョーカーが嘘話でっちあげてるだけで、本当は悪のカリスマでも何でも無いおかしい人、という解釈どちらもOKなように作ってある。
勿論、途中で嘘と真実が曖昧な描き方になってたように、自分はこのシーンまでは本当にあった事だと思う、みたいなその人の感覚に委ねる作り。
私は今回見てて思ったのって、ロバート・デニーロ演じるパプキン・・・ではないらしいあのTVショーの司会者がアーサーをTVでピックアップするというのに正直合理的な理由とか感じられなかった。いかにも強引な都合の良い展開で、そういうのは凄く嘘臭いなと。TVショーに出た時の練習を前半でやってたのが前振りで、あれは全部妄想でしたってのが私的には納得の行く解釈。
勿論、本物だと信じたい人は信じて良い。そもそも映画ってフィクションですし。コミックの方でも昔からジョーカーのオリジンは時代に合わせて何度も描かれて来ましたが、果たしてそれが本当の事なのかはわからない、だってジョーカーの語る事だから、みたいなのがある種のお約束だし、それが面白味。恐らくはそういうのも作ってる方は意識してると思う。
わざわざブルース・ウェインを出して、もう百回繰り返されてきた真珠のネックレスパラパラ~とかやる辺りは、物凄くコミック映画として作ってあるのは明白ですし。
その上で描かれてるテーマに触れるなら、いやこれでね、社会的弱者に少しでも優しい目を向けてくれるのならこんなに素晴らしい事は無いですよ。でもきっと、ジョーカーカッコいい!って言ってる人は、実際は社会的弱者に制裁を加えたり、映画のアーサーだけは擁護するけど、現実の問題には目を背けるんでしょうね。
そして逆にジョーカーに感情移入して、自分がジョーカーなんだって思うタイプの人は実際にこの映画の後に本国でも日本でも模倣犯が出ましたし、そうやって自分を正当化しようと、或いは自分に酔ってこの映画も貶めるんでしょうね。
みんなもっと他人に対してやさしくなろうよ!とか呼びかけてる人も選挙に行って、弱者に軽蔑の視線を向ける差別主義者集団の自民党とかに票を入れるんでしょう。いやあ、まさに理不尽とはこの事です。世の中って不条理に満ち溢れてますねぇ(ニヤリ)
とまあ皮肉めいたことを言ってしまいますが、私もね、こういうのには凄く昔は感情移入するタイプでした。そっち側に居た人でしたしね。
今の世の中、定期的に「無敵の人」と呼ばれる人が出て来ますし、逆に自死を選んでしまう人も多い世の中、一人で悩みを抱えてる人も居ると思います。そんな人達に一応言っておきます。
冷静に考えてみて下さい。「ジョーカー」みたいな映画に感情移入する人がこの世界には100万人も居るんですよ?(ゴメン、数字はテキトーです)この世界でたった一人で孤独を抱えて、今にも壊れてしまいそうだと思ってる人、山ほど居ます。そういう悩みってね、もう何十年も昔から、誰もが抱えるベタな悩みなんですよ。
だからジョーカーみたいな映画がヒットするの。だから昔のボンクラはみんな「タクシードライバー」のトラヴィスにあこがれてヒーロー視したんですよ。それと同じ構造。
孤独だと思ってる人が百万人居て、同じ悩みを抱えてる。それってベタじゃね?
っていうか孤独じゃなくね?
っていうような考え方は私は実は学生時代に筋肉少女帯の大槻ケンヂに学びました。はい、私はクラスで一人きりでした。でもそれは隣のクラスにも一人の子が居るんですよ。学年に4~5人居る、じゃあ他の学年は?はい、一つの学校で20人とか30人。もうそれは一つのクラスと言っても良い人数ですよね。じゃあ隣町の学校は?地区では?県では?全国では?世界では?何千人何万人と居るんですよ。当時はそんな言葉なかったけど、今で言うマーケティングみたいなもので、そういう層に向けて自分のメッセージを発信しようと思ったって大槻ケンヂは言ってました。見事にその中の一人だったわけです私は。
ジョーカーの劇中で、「自分は透明な存在」だとか「人を殺した時に初めて自分の中に明りが灯った」とか、いやオーケンの詩でそんなの散々聞かされてきたから、と私は思ったし、そのオーケンの歌詞だってオリジナルじゃないんですよ。過去の作品の引用とかなの。そんなの50年も100年も前からきっと受け継がれてるものです。
孤立の反対って何でしょう?連立?連帯?ここ5年10年の社会派映画のトレンドって何かご存知でしょうか?疑似家族とかです。血が繋がってるかどうかなんてどうでもいい、繋がりあえる何かがあればそれで十分、そこに縋って生きようよ、ユニオン(同盟)を結ぼうよ、っていう。
世界で一番ヒットした映画の「アベンジャーズ」だって同じなんですよ。みんなの力を合わせれば理不尽だって乗り越えられるよっていう空気があれをヒットさせたんだと私は思う。ストレートなメッセージ性とかじゃなくても、時代の空気感というか。
これ以前のジョーカーは、ジョーカと言うキャラクターそのものが理不尽や不条理の象徴だったわけですよ。でも今回の映画は、そのジョーカーの内面やバックグラウンドを明かして、不条理ではなく条理、理解出来る存在として描いたわけですよね、一応表面は(それも全部嘘だよーンって場合をとりあえず置いといて)なら、この世界の理不尽や不条理を解き明かしてしまえば良いんですよ。そうすれば恐怖や不安から解放される。
ジョーカーがこの映画で怖い存在で無くなったのと同じように、この世界の恐怖や不安にきちんと向き合えば、きっと前を向けるはず。と私は言いたい。
という所で「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」に挑んで来たいと思います。
え?ハーレイクイン?ジョーカーに本物の彼女が出来たの?
メンヘラ彼女とは言えそんなのもう孤独じゃないじゃーん!
んんんんんー、許るさーん!
というジョークは置いといて、見返してみると本当に表情の一つ一つとかが凄すぎて今まではあんまり好きな作品じゃ無かったのですが、認めざるを得ない良い作品だったなと気持ちを改められました。
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