監督:月川翔
原作:柳本光晴「響 〜小説家になる方法〜」
日本映画 2018年
☆☆
<ストーリー>
出版不況が叫ばれる文芸界。文芸雑誌「木蓮」編集部に一編の新人賞応募作が届く。応募要項を一切無視した作品のため、破棄されるはずだったその作品に編集者の花井ふみが目を留めたことから、状況は大きくは変わり始める。「お伽の庭」と題されたその小説は、15歳の女子高生・鮎喰響によって書かれたものだった。
漫画原作の映画。天才主人公みたいなのは苦手なタイプですが、映画は割と評判良かった印象ですし、漫画原作映画と言っても「ちはやふる」みたいな映画史に残るくらいの名作もありますので気になってたこちらの作品、見てみました。原作は全く触れた事ありません。
ええと、最初に言っておきますが私は小説とかそっちの世界は明るくないです。流石に直木賞と芥川賞の違いくらいはわかりますし、本を読むのに苦手意識とかは特に無いのですが何かの原作本とかでもなければ小説はほとんど読まない方です。村上春樹とか初心者にオススメの奴とか聞いて(何だっけな?)読んだりしたものの、あまりピンと来る感じでは無かった。
冒頭、本棚の分け方わかる?という質問に対して、面白い本と面白くない本にわけてましたが、その時点で???
映画もそうだけど、本なんて読む人が決めるもので、他人の評価なんてそりゃ違って当たり前じゃないですか?それを押しつけられても困りますよね。
しかも山田悠介っぽい感じの本でそれを競い合う。テーマや文体は陳腐だけど、斬新で新しい物は文芸上価値があるだのないだの。ああ、これそっち系の話題性重視の中身が何もない系と同じ映画ですよ、っていう示唆ですよね。面白いやり方だなぁと思った半面、中身無いやつは私好きじゃないやつだ、とそこでもう気持ち的には半分脱落。
ただのエキセントリックなだけで、どうしても感情移入とかはしずらい主人公。それだったらアヤカ・ウィルソン演じる有名作家の娘の方がまだドラマとしてはわかりやすい。天才のライバルには何をやっても勝てないし所詮親の七光にしかすがれない情けなさ、ハーフだから仕方ないんだけど、バカっぽいギャルにしか見えない外見で、どうして私の中身をちゃんと見てくれないの?という葛藤。そこは凄くドラマとして掘り下げられそうな要素でしたが、映画内では表層だけでした。
おそらく原作ではこの後にそういう所が深堀りされていくんだろうなとは感じましたが、文芸部の男子二人の映画上の存在意義の無さと相まって、そこは原作物映画の弱さかなと感じます。
天才主人公って近年多いなと感じていて、努力もせずに自分は特別な人間だと思いたい今時の人の安易さかな?と私も昔はこういうの受け入れにくかったのですが、社会学的に見ていくと、何故そうなってるのかが理解できて、それはそれで面白い。
熱血スポ根物が良い、なんてのは流石に私も思わないのですが、努力もしないで天才ってのは都合良すぎなんじゃないか?という嫌悪感がありました。けど「努力すれば夢が叶うよ」なんてのはもう昔の価値観なんですよね。戦後の復興から高度成長経済、昔は実際に頑張れば報われるという社会背景があったわけです。だからそれを信じられたし、それを見て受け入れられても居た。宮台真司が言う所の大きな物語ってやつ。
でも成長経済はもうとっくに終わってます。頑張れば報われるなんて信じてるのはやっぱ昔の人でしか無くて、社会学上では95年を節目として、頑張れば報われるのなんてそんなのもう幻想じゃん、ってなってるのが今の世の中。
だから今の人には「努力して強くなっていく主人公」とかには逆に乗れない人も出てくるというのはある意味必然というわけです。天才主人公がやたら多くなったのはそういう社会背景も関係しています。
で、この作品は一体何を描きたかったのかなと想像すると、作品は面白いけど、中身は全く尊敬できない人とかだったらあなたは支持するか否か、みたいな所でしょうか?作品と作者は分けて考えるべきか、みたいな。
昔は作者の気持ちとか、作者がこう語っていたから、とかが重要視されていたけど、今はそこを切り離して考えるのが主流になっていると、書評関係のゼミで教えてもらった気がします。作者がこういう意図を込めた、というのは一度置いておいて、作者はこう言ってるけど、作品の描写からはこう読み取る事が出来る、みたいな方を重視されている風に今は変わってきているというような事だったかと思います。
その辺りは私もこうやってブログを書く上で考えながらやってます。作り手はそこまで意識してないかもしれないけど、時代を鑑みるとこういう描写は社会背景的にこう読み取れるよね、的な。
原作を読んでいないので、全体的な物語を知っているのと知らないのでは解釈にも違いは出て来そうですが、最後の電車止めて損害賠償うんぬんも、印税で払えるからいいや、自分で自分のケツは拭えるから好き勝手やっても許されるでしょ?的な安易なエクスキューズに思えて、う~んお金の問題じゃなくないか?と微妙に思ってしまいました。
逆に小栗旬演じる売れない作家(これまで何冊も出版出来てて、1冊でも本屋に並んでるだけてでも凄いんですけどね)みたいなのは面白いなと思ったし、「3月のライオン」でも主人公だけでなく対戦する側の棋士の描き方が、ああこの人達なりの人生があるんだなと思えて、そういう部分はこの「響」も他の作家の面々はとても面白く見れました(「3月のライオン」は脇だけでなく本筋の方も面白かったんですが)
ただ、小説家という形なので、響の小説がどれほど凄いのかが伝わり難く、直樹賞と芥川賞の同時受賞って部分が、小説界における超超超超歴史的にありえない100年後にも残るぐらいの偉人という事なのか、これ実際はありえないでしょ?普通の人ならそこわかってくれるよね。これはこういう現実的じゃない極端なネタとして描いてる作品なのでリアルじゃないとか言わないでねっていうエクスキューズなのか、そこがよく私はわかりませんでした。
う~ん、多少エキセントリックな方が面白い物を描けるっていうのもあるのかもしれませんが、自分の中の正当な理由だけで他人への暴力とかが許されるとも私は思えない。そこは相手より頭が切れる皮肉とかで返してくれると私なんかは面白いと思うんだけど、それだと普通になっちゃうのかもしれません。
ただただ感情を暴力で解消してるようにも見えて、そこは理解に苦しむポイントでした。嫌な大人に対する、言葉では言い返せないから行動に走る子供の感情と言う風に解釈も出来るんだけど、感情を言葉に出来るのが小説家でしょうし(しかも天才なんだし)その辺がモヤモヤ。
見た目は可愛いし、読書に勤しむメガネっことか、オタクならすぐに好きになっちゃうタイプですが、それにちょっとアレンジを加えた、程度の話なのかも。響を演じた人、トップアイドルらしいですので、そんなに深く考えずに素直にアイドル映画として、この子可愛いなって素直に見れば良い映画かな。
私はアイドルとか全然知らないので、仮にこの映画を面白い方の棚と面白くない方の棚に入れるとしたら、後者に入れてしまいます。うん、それが君の響。