僕はこんな事を考えている ~curezの日記~

見たもの読んだものなどの簡単な記録と感想のチラシ裏系ブログ

読書感想文は必要か?について僕はこんな事を考えている

ブログを初めて半年。読者はまだ居ない。

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 ネットニュースとかで読書感想文について昨日話題になってて、本日仕事中に聞いていたラジオでもその話題が出てました。

 

 宿題でも何でもないのに、自主的に読書感想文(アメコミだって読書ですよ)やら映画感想文をほぼ毎日に近いくらい延々と書き続けている私は一体何なのだろうとふと考える。

 

 ええと、子供の頃の宿題の読書感想文に関しては特にこれといった思い出はありません。先生に褒められた事も無ければ、特別に苦手だったという程では無い。記憶に全く無いレベル。

 

 文章を書くのが好きなのは、10数年前に自己流で自主的にやってた昔のブログとその数年後くらいに地方のNPOに参加して、その中でミニコミ誌とかで書評とかコラム?エッセイ?みたいなのを何度かやらせてもらってた辺りからでしょうか。


 文章の書き方はその時に改めてゼミで勉強しました。きちんとやると一つの記事に物凄く時間を使わないといけなくなるので、今のブログでは意識しつつも厳密に守ったりはしてませんけれども。ただその辺の経験はあるので、時間をかけてきちんと書いてあるものとそうでないものはそれなりに判別はつきます。

 

 そもそも昔書いてたブログを始めた切っ掛けは何だったかな?と思い返してみると、多分、ガンダムがきっかけでした。セガから出ていたドリームキャストというゲーム機が切っ掛けでそこからネットの世界に足を踏み入れ、様々な一般ユーザーの声みたいなものを目にする事になる。

 

 今でも昔と比べたら割合的には少なくなってると思うんですけど、ガンダムファンの間で宇宙世紀至上主義みたいなのありますよね。当時はそれが凄く強かった。「Gガンダム」「ガンダムW」「ガンダムX」のいわゆるアナザーガンダムが世に出て間もないころ。あんなのはガンダムじゃないとか散々言われてて、私も最初は真に受けてリアルタイムとかでは見てなかったのですが、他人の評価の前にまず自分が見てみないとわからない、一度見てみようと思い、重い腰を上げてやっと見てみたら、それなりに面白かったし、ただ名前だけを使った物じゃ無くて、そこに共通するテーマを見出す事が出来たんですよね。

 

 そこで「世間やネットの評判なんて当てにならない。自分の目で見て自分の頭で考えて判断する」という、凄く当たり前の事に気がつきました。最初はいちいち掲示板とかで話題になった時に自分の考えを書きこんだりしてましたが、それって正直、キリがない事にやがて気付く。じゃあ一度自分の考えやスタンスを纏めて記録に残しておこうと言う事で、ホームページを立ち上げて、それが段々と簡略化されていく内にブログの記事を書くと言うスタイルに変化していった、という感じだったなと今思い出しました。

 

 その内、映画なんかも見るようになって自分はこれを見て(読んで)こう思ったよ、こんな事を感じたよ、みたいなのを残すのが習慣化していった、という感じです。

 

 読書感想文だってそんなものじゃないんですかね?授業とか宿題とかだと、必然的にそれを評価するという形になっていて、その評価基準が一体どういったものなのかはわかりませんが、果たしてそこに正しい答えがあるのか、という所ですよね。

 

 ありがちな所で「作者の気持ちを答えなさい」みたいな奴ですけど、書評のゼミで教えてもらった限りでは、もうそういう「作者の意図はこうだ」みたいな捉え方は主流では無くなっているのだそうな。例え作者にその意図が無いのだとしても、本(あるいは文章)からはこういう事が読み取れる。という読み方の方が現在では主流になっているのだそうです。

 

 一体授業や宿題で先生はどういう評価基準なんでしょう?とても気になります。テスト的なもので無く、もし自分が先生のように他人の感想文を評価する立場だったら・・・なんて事を考えると、そこはやっぱり視点なのかなと。同じ文章、本、小説、漫画でも映画でもゲームでも何でも良いですが、そんなのは受け取る側によって感じ方は十人十色だと思います。

 

 その多種多様さこそが面白味ですし、もしそこに共通する物があれば自分と同じ考えや感じ方が居るんだ、と思ったりはすると思います。ただそれは決して「正解」とかでは無いですよね。

 

 学校の先生とかはもしかしてそういうのを基準にしてるのかな?学校ってそもそも多様な人を同じ考えに矯正して国に従わせるためのシステム的な面もあったりしますし、もしかしたら先生個人としてはそこまで考えていなくとも、そういった社会のシステムに飲み込まれているような状態だったりするのかもしれません。

 

 でも、私個人が他人の感想文を評価する立場だったとしたら、その人なりの、その人にしか見えない視点を持った物を評価したくなります。お!この人はあの作品をこんな風に読み取ったのか?これは自分にはなかった視点だ。面白い。ってなります。ただそれを学校先生とか仕事として業務をこなす中で、一つ一つそんな風に向き合うのはやっぱり大変かなとも思います。

 

 私がこうしてブログを書いたり、他人のブログとか感想を見て面白い!なんて思うのも、はっきり言って誰に何かを言われるでもなく好き勝手やってるから、みたいな自覚はありますしね。

 

 ただ、何を感じ取るのかは十人十色でも、それがあまりにも飛躍しすぎていてはダメだと思うんです。何を感じ、何を考えるかは自由。でもそこに元になる作品があるのだとしたら、その考え方を裏付け、説得力を持たせるものがないと、それはちょっと飛躍しすぎなのでは?という風になっていしまいます。

 

 物事をきちんとロジカルに考え、論理として確かにこれはそうだ、言ってる事はもっともだと思わせてくれるものがないと、そこは厳しい。ゼミに参加したり、ミニコミ誌を作ってる中で、他人の書いたものを推敲する作業なんかをしていると、これ意外と気付くものなんだなと感じる事が多かった。

 

 突飛な考え方が出てくると、そこは単純に面白かったりするんだけど、ちゃんとした裏付けや論理が無いと、ホントにただ突飛なだけで、説得力も何もない文章になってしまいます。先生が読書感想文に評価をつけるのだとしたら。或いは読書感想文を書かせる事によって何を学ばせたいのか、みたいなものがあるのだとしたら、多数の人が考える同じ感想などではなくそうやってロジカルに物事を捉え、論理的な思考が出来るようにする事だと私は思うのです。

 

 私が言っているような「面白い」にはちゃんと理屈があって、自分には無いようなある意味では一見突飛な意見に対して「これは見た事が無い意見だぞ」と先に感情を揺さぶられるものがあって、その後にちゃんとした裏付け、理論があればそこでなるほどそれはもっともな意見だという「納得」が生まれるわけです。感情と理性の両方を揺さぶられるからこそ「面白い」になる。

 

 個人的にツイッターが苦手なのはそこです。限られた文字数でそこをちゃんと両方を書けないから、私はこうやってダラダラと長い文章を書いてしまいます。

 

 200字とか400字とかの文章の書き方もゼミで勉強はしましたけどね。要約して焦点を絞ってその上で更に感情に訴えかけるとかになってくるので、本当は長文の方がずっと楽です。

 

 ああ、そうそう話はちょっとズレますが、いつかの記事で昔と比べて長文で感想を熱く語ってるようなブログ減ったな~って書いたんですけど、あれは単純にわかりやすさだけじゃなくて、今時の人はパソコンでネットするんじゃなくて、スマホでネットしてる人の方が多いから長い文章は読まないんですってね。物理的な画面の情報量と、生活スタイルの変化だったのか。そこは盲点でした。そういうのがあった上でのわかりやすさが必要になってくるのか。そこに迎合はしませんが、参考として頭には入れておかないと。

 

 そんな感じの「他人に強要されなくてもひたすら感想文を書きまくってる人」なりの意見でした。読書感想文そのものはとても良い事だと思うし、無くしてしまうのは勿体無いので、評価基準の方こそを変えた方が良いんじゃないかなと。

 

 映画なんかだとよく「映画はスクリーンに映ってるものが完成じゃ無くて見た人の心の中に映し出されたものこそが本当の完成」みたいな事を言う人居るじゃないですか。私はそれってその通りだなと思うんです。映画レビューにせよ読書感想文にせよ、その完成したものを文章で表現してるんだと思うんですよね。それって凄く面白い事だと思いません?感想文どんどん書こうよ。


 インプットするだけじゃなくてアウトプットする事で見えてくるものっていっぱいあるから。