僕はこんな事を考えている ~curezの日記~

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惡の華

惡の華 [DVD]

AKU NO HANA
監督:井口昇
原作:押見修造
日本映画 2019年
☆★

 

<ストーリー>
山に囲まれた地方都市。中学2年生の春日高男は、ボードレールの詩集「惡の華」を心の拠り所に、息苦しい日常をやり過ごしていた。ある日、憧れのクラスメイト・佐伯奈々子の体操着を衝動的に盗んだところをクラスの問題児・仲村佐和に目撃されてしまった彼は、秘密にする代わりに仲村からある“契約”を持ちかけられる。この日から仲村に支配されるようになった春日は、彼女の変態的な要求に翻弄されるうちに絶望を知り、自らのアイデンティティを崩壊させていく。やがて「惡の華」への憧れにも似た魅力を仲村に感じ始めた頃、2人は夏祭りの夜に大事件を起こしてしまう。

 


伊藤健太郎君、ひき逃げで捕まってしまった今こそこれを!というわけではなく、たまたま2週間前にレンタルで借りてた奴でしたので、なんというタイミングかと。

 

個人的には、役と役者は別物、あるいは作品とは別物と思わなければとは思う派ではあるのですが、やっぱりこういう事があると、何だかなぁ?と思ってしまいます。TVドラマ「今日から俺は」で逃げない正直者の伊藤君を演じてましたけど、その役者がひき逃げ事件とかおこしちゃうと、なんだか作品まで貶めてしまう感じは否めないなと正直思ってしまいました。

 

それはさておき、映画「惡の華」です。原作は連載時に軽くは読んでて、感情移入して読んでたというよりは展開が気になる漫画、という感じで読んでました。


アニメも見ていて、ロストスコープ方式の珍しい感じで、監督が長濱さんっていうのは後から知ったんだったかな?あれはあれで面白かったんですが、下手に1クールにまとめたりせず、中途半端なとこまでで終わってしまってました。最終回にフラッシュバックっぽくその後の展開を見せて、人気があれば2期に行きたかったんでしょうけど、萌えアニメ全盛の中でさっぱりソフトが売れずにそのままフェードアウト。

 

そんな流れの後に原作も完結した上でのこちらの実写映画。上映時も、一応見ておくかとは思ったものの、確か他の作品を優先して結局スルーでした。で、あらためてレンタル視聴。

 

う~ん、正直微妙。
この手の、自意識ライジング系は好きな部類だし、大槻ケンヂに影響を受けたっていうのは原作者も言ってる上に、監督が「ヌイグルマーZ」とかも撮ってる井口昇ですので、オーケンが学生時代の支えだった私にとっては凄くツボにハマる可能性は高かったのですが、残念ながら全然乗れませんでした。

 

何でダメだったんだろう?と考えると、まず最初はあまりのリアリティの無さ。話も役者も演技も全てが作り物っぽくて、コスプレ劇を見てる気分。仲村さんがまずダメだったなぁ。ビジュアルも声も演技もなんか自分がイメージしてたのと違った。最初から作り物、という割り切りがある分もあってか、アニメの方がまだ自然でリアリティがあったような気がしてしまった。情報量ではアニメよりずっと実写の方があるはずなのに、その情報量が逆に作用してしまうのか、漫画の映画化とかやっぱり難しい。

 

佐伯さんは割と作中の年齢に近かったのもあって、そこまで違和感は無かったのですが、春日君と中村さんの、え?これ中学生設定なの?感は拭えず。原作でもそうなんだから変な意図は無いのかもしれないけど、春日君の中学生と高校生の髪型の違いが、こういうわかりやすいビジュアルの違いがなければその差を出せないからやってる、という感じの言い訳に思えてしまって、う~ん。

 

春日君、Mっ気に目覚めた感じの、罵声を浴びせられて恍惚の表情に変わる辺りとかは物凄く良かったんだけど、なんか私にとってはそこだけがこの映画の良い部分でした。私もM気質ですし。

 

自分を重ねるという部分に関しては、近い自意識ライジングを持ちつつも、ストレートに自分を重ねられないのは、私は単純にオタクの方に行っちゃった(来ちゃった)からなのかなと、今回改めて思いました。オタクって世間からは冷たい目で見られる辛さはあるけど、本人は楽しくやってますからね。

 

逆に、オタクにもなりきれないタイプの人が、こういう作品を見て「これ自分の事だ」とか心を抉られるのかも。

 

あと、「変態」っていう言葉の使い方も個人的に昔からすごく気になっていて、少しでもノーマルから外れると、変態とか言いがちですし、世間一般的には言葉の使い方としても間違ってはいないんだろうと思いつつも、ネットとかで、もうどこまでもニッチな性癖とかがある事を知ってしまうと、この作品でやってる事ってただのSMじゃね?いや確かにSMも世の中では変態扱いされるのかもしれないけど、そんなの変態界(何だそれ)ではそれこそ初歩の初歩でしかないし、もっと常人には全く理解不能なレベルのニッチな性癖じゃなければ「変態」とかわざわざ言うのも違うんじゃないの?とか思ってしまう。

 

勿論、作中でも「変態にすらなれない空っぽで何も無い自分」という流れですし、中高生くらいならこういうのにもドキドキして、自分ももしかして変態じゃないか?なんて悩んでしまうのかもしれませんが、世の中にはね、想像すらつかないレベルのとんでもない世界が山ほどあるんだよ、そんなのと比べたらこの程度でアブノーマルだとかは思わない方が良いです。理解出来ないレベルまで行ってこそ本当の変態だと私は思う。

 

で、最後も何だかなぁと思ってしまったのは、春日君が少し大人になって、自分の「禊」みたいな感じで仲村さんに会いに行って、それでハッピーエンドみたいな形になってるのが、ええ~っ!それ違うでしょ?と。

 

自分が救われたらそれでいいの?仲村さん、まだあれって抜け出せてなくね?凄くエゴイスティックでこういう人間は嫌だなぁと。何でもそうだけど、自分が納得する事で問題が解決したみたいになってるものはちょっと私には受け入れがたかった。

 

また別の中学生が悪の華に目覚める、みたいな所は凄くわかるしそこは延々と時代を越えて続いていくものなんだろうなと思うし好きだけど、こんな春日君のエゴイスティックでどうでもいい普通の人になっちゃった部分より、仲村さんがどう自分と向き合っていくのかとかの方を見たかった。多分、そこが十分に描かれないと、このモヤモヤにどう向き合っていくか悩んでる人には伝わらないんじゃないのかなぁ?


なんとなく通り過ぎた青春時代の1ページ、みたいな作品になっちゃったらそれはあまりにも普通なのでは?普通を描きたかった作品ならともかく、こういう作品に魂を揺さぶられる「そうじゃない人」にこそ届けたい物語、にはなりえないんじゃないかなぁと、残念に思う作品でした。

 

つーかこれ、岡田マリーが脚本やってんのね。知らなかった。


映画『惡の華』9.27公開|本予告90秒

 

 

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