僕はこんな事を考えている ~curezの日記~

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マトリックス レザレクションズ

マトリックス レザレクションズ [DVD]

原題: The Matrix Resurrections
監督・脚本・制作:ラナ・ウォシャウスキー
アメリカ映画 2021年
☆☆☆

 

<ストーリー>
もし世界がまだ仮想世界[マトリックス]に支配されていたとしたら――?ネオは、最近自分の生きている世界の違和感に気付き始めていた。やがて覚醒したネオは、[マトリックス]に囚われているトリニティーを救うため、何十億もの人類を救うため、[マトリックス]との新たな戦いに身を投じていく。


20年ぶりの続編。なんか公開当時は1だけ見返しておけば良いよ、みたいな風に言われてた気がするんですけど、普通に2と3の結末まで踏まえた上のがっつり続編じゃないですか。時系列こそ飛んでるけど、普通に「マトリックス4」でした。作中の設定では前作から60年後と、結構な飛び具合ではありますが。

 

1作目はとにかく社会的なブームを巻き起こしたレベルのヒットで、やっぱり今まで見た事無いレベルのビジュアルもあり、斬新な作品だったと思う。じゃあそのインパクトが今回もあったかと言えばね、まあ残念ながらそういうタイプの続編では無かった。

 

今回、ちょっと面白いなと思った設定がバレットタイム。あれって旧作の時点では撮影技術の事を言ってましたよね。カメラアングルが被写体の回りをぐるっと1周する奴。今ならそんなのCGで誰でも簡単にやれるカメラアングルですけど、当時はあれCGじゃなく、実際にカメラを十数台置いて360度撮影したものを繋ぎ合わせて作ってたんですよね。デジタルじゃ無く実は凄くアナログだったっていう。

 

今回もこれがバレットタイムという奴だよ的な感じの事を言うシーンあるんですけど、多分今回は普通にCGで作ってるんだけど、時間停止みたいな意味で「バレットタイム」という言葉を使ってました。そのロジックが、自分のクロック数を上げて回りと速度差を作って、実質時間停止みたいな事が出来るという理屈にしてある。

 

それはマトリックスというデジタルな仮想空間の中だからこそ出来るチート能力みたいなもので、今回物語の冒頭で明かされる話の上では、旧マトリックス3部作はゲームの中の話だったんですよ、みたいになってるのはなかなか面白かった。

 

そしてワーナーが無理矢理続編を作れと言ってきて、じゃあそれはリブート作にするかとかそういうメタな話が始まるのも、導入としては楽しめました。

 

続編ではあるけれど、明らかに2や3とはトーンが違う。旧作に思い入れがあって、旧作が好きな人にとっては、なんか違うんだよな~って思う所でしょうけど。

 

でもさぁ、20年経てば世の中も変わるし、作ってる人の気持ちだって変化するもの。そりゃあ昔とは違いますよね。

 

バカにしたり、面白おかしく言ってるわけではないのですが、そもそもが旧作の時点では監督が「ウォシャウスキー兄弟」だったものが、今は「ウォシャウスキー姉妹」になってる。二人とも性転換手術を受けて、男性から女性になりました。

 

しかも今回は姉妹での監督作では無く、片方のラナさんのみの企画で、もう片方のリリーさんは関わっていない。喧嘩別れしたとかではなく、リリーさん的には終わったコンテンツを再度またやる意味を感じ無かったから参加しなかったとの事。

 

そりゃあ過去3部作と同じ作風にはなりません。むしろ過去3部作と何が違うのか?という所に面白味があるように思う。

 

今回、ネオ役のキアヌ・リーブス、トリニティ役のキャリー・アン・モスは続投してるけど、モーフィアス役のローレンス・フィッシュバーンは参加してない。どこまで本当の話かわかりませんが、当時のインタビューとかでローレンス・フィッシュバーンに「マトリックスの新作には出るんですか?」ってインタビュアーに聞かれて、「出るも出ないも、そもそもオファーすら来てないし」って言ってたのはガチだったんでしょうか。エージェントスミス役のヒューゴー・ウィービングは、出たかったけど他の作品と重なってしまってオファーを断らなければならなくて残念、みたいな話だったので、よっぽど嫌われてたんだろうか。

 

作中ではモーフィアス2世みたいな人が出てくるけど、ただのコピーでしたし、物語の上ではオリジナルのモーフィアスはザイオンが二分した時に片方を率いてたけど結局そのまま死んだらしい。で、その二分したもう一つの方をナイオビが率いてアイオという新しい拠点を作った。


そのアイオの特徴が、人間と機械との共生。

そんな「人間と機械との共生」こそが20年前とは違う価値観の気がします。


「レボリューションズ」の時の感想で私は、一昔前の管理社会ディストピアSFなら人間が機械に支配されてたまるか!泥水啜ってでも人間は人間らしく生きるべきだ!みたいな落とし所にしそうなものを、マトリックスという作品は二分したまま互いに干渉せずに別々の道を選ぶし、デジタルを安易な否定のみにしていない所に今の時代を感じる的な事を書きました。

 

で、ウォシャウスキー兄弟が、ウィシャウスキー姉妹になった所に話を戻すと、勿論カミングアウトして性転換手術をした後に言った後付け的なコメントにも思えますが、「マトリックス」が持っていた、偽りの自分と本当の自分みたいなテーマは、自分のジェンダーアイデンティティみたいな所を作品に投影していた部分は当時から少なからず自覚はしていたけど、当時の世相ではあまり表立ってそんな事を言える空気じゃ無かった、みたいな事を後に語っていたそうです。

 

それこそザイオンの市民みたいに、狭い所に閉じ込められて、本当の自由を謳歌したりは出来ないけれど、自分達のフィールドに侵攻してこないという取り決めを立てる事で小さいコミュニティながらも自分達はそれで幸せなんだと。そういうラストでしたよね。

 

普通に見てると、これって言うほど問題解決してなくね?これで勝利だって喜んでいいの?と正直思ったけど、あれは性的マイノリティのコミュニティの事だったのかと。

 

でもって、そこから20年経った今なら、差別は相変わらず無くなりはしないけれど、それでも昔よりは世間の理解度も上がってきたのは確かだし、今は閉じたコミュニティではなく、機械も人間もそれぞれが異なる存在でありながら、お互いを認め合えれば共生していけるような新しいコミュニティが出来た。それがザイオンからアイオに置き換わった理由。

 

指導者としてのモーフィアスは過去の人間になり、ナイオビこそが今のあるべき指導者で、そして救世主もまたネオからトリニティにバトンタッチしたと。

 

となると、エージェントスミスはどうだろう?旧シリーズでは、不確定要素をもつバグは排除するべき存在だったけど、逆にそんな不確定要素こそが人間で、どちらに転ぶかわからないけれど、物は使いようって事じゃ無い?みたいなポジションに落ち着いたようなそうでないような。

 

「リローデッド」の時に、既存のプログラムから外れた存在になったスミスこそが本当の救世主だったリしないか?とか私は思ったけど、結局「レボリューションズ」では排除されちゃってね、バグはあくまでバグなのか?乱数調整とかグレーゾーンみたいなものを持ってる方がより人間らしいんじゃないの?みたいに思ったけど、なんかそう言う所も含めて20年前とはまた少し違った、今なりの価値観みたいなものは作品から見える気がします。

 

かつての「マトリックス」3部作があのマトリックス世界のバージョンアップの様子を描いていたように、現実の世界のバージョンアップを今回の「マトリックス レザレクションズ」として描いたのなら、それなりに納得出来る部分はありました。

 

少なくともね、2や3の時の、私的にはあんまりピンと来ない作品だったなぁという印象よりは、全てでは無いにせよ、ある程度納得出来る今の時代なりの答えが提示されてる作品と感じました。

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