Gundam Reconguista in G V
総監督・原作・脚本:富野由悠季
日本映画 2022年
☆☆☆☆★
劇場版Gレコ5部作、ついに最終章完結編。4部から2週間後に公開と言う大分アレな感じの状況ですが、単純に作品に関しては大満足。前回と同じく、地元では上映予定が無いので隣の県まで遠征して見て来ました。
基本的にTV版と変わりは無い気はしますが、クライマックスですからね。ここまで辿りついたっていう感慨深さは当然あるので、これが良い作品と言えるかどうかは微妙な所ではありますが、単純に満足度は高いです。
最後にちょっとした追加シーンもありますが、私は「ザブングルグラフィティ」を思い出しちゃったかな?TV展開では死んだ人がこっちでは復活とかではないのですが、TVの結末でちょっと周りからブーイング受けたので、そこはちょっと修正しようか、みたいな感覚とでも言うべきか。
ああ、結局「アニメを作る事を舐めてはいけない」、半分くらいまでしか読めてませんでした。まあでもGレコが何をやりたかった作品なのかは、そこでもう理解できましたので、そっちはそっちで後日読み終えたら感想書きます。
ただ、完結したのもあってインタビュー記事とかでも割と触れられてますが、富野がよく言ってる「50年持つ作品」という部分と、TVシリーズ初期からよく言ってた「大人で無く子供達に見てほしい」的な部分に関して色々と補足してみようかと思います。
実際に50年持つ作品になってるかと言えば、間違い無くそうはなってないです。それくらいの情報量を詰め込んでいるというのはわかるし、個人的にもそこはとても面白い部分ではあるのですが、何で富野はそんな事を言ってるかというと、実際に「機動戦士ガンダム」が50年持ったからですよね。
でも富野は何故ガンダムが50年持ったのかそもそもわかってない。確かにアニメ史に残る歴史的な作品である事は間違いない。それくらいの完成度や革新性、他の作品には無い独自性とか、評価軸は沢山あるし、誰もが認める作品である事は間違いない。
けれど、コンテンツとして40年維持してきているのと、今でも世界を股にかける大企業の主力IPの一つになってるのは、かつてサンライズが身売りした時に、責任者を殺してやろうかと思ったとか言う程に憎んだ、バンダイとかそっちの企業努力ですよね。決して「作品が優れていたから」のみが原因の全てでは無い。
私のガンダムの入り口の一つだったSDガンダム全盛期だって、「逆シャア」~「F91」くらいはそれこそSDの方が主力で、そういったもののおかげでガンダムは延命出来たし、その後のアナザーやOVAシリーズ、そこから更に後年のSEEDやOO。ゲームとかもそうですし、TV放送の連動とは関係なく展開したMGやHGのプラモとかとにかく色々な要因があってこそガンダムは50年生き延びて来た。
コンテンツ虫の息だった頃も私は見てきてるし、例えば「ヤマト」や「マジンガーZ」だって今も新作が作られ続けたりはしてるけど、正直ガンダムとは規模が違いすぎる。そっちはバンダイの主力IP扱いなんかされてないわけですよね。
富野由悠季が精魂込めて作った「機動戦士ガンダム」は実際に大変素晴らしいものだけど、それが50年後もこうしてはやし立てたれたり、それこそ立像が立ったり、文化功労賞を貰えたりするのは、決して富野一人では出来なかった流れです。だってスタジオジブリは宮崎駿が引退つったら、簡単に終わっちゃったじゃん。後継者育てとかもしてはきたけど、結局は上手く行かなかったわけで、富野が看板をおろしたとしても成立するのがガンダムなのは間違いない。
本人的にはね、自分が権利を手放さなかったら、億万長者になってただろうか?とか思う事ももしかしたらあるのかもしれないけど、普通に考えてそれはないでしょう。富野が権利を手放したからこそ、今のガンダムがある。
それなのに「Gレコはガンダムではありません」とかトチ狂った事を言いはじめるものだから(その意図は理解できるけれども)、見てる方は???の連続。一応、TVシリーズは「ガンダム Gのレコンギスタ」というタイトルで、劇場版の方は「Gのレコンギスタ」のみでガンダムと言うタイトルはつかないらしい。
ただ、ロゴの所には何故か「GUNDAM」ってまだ入ってますよね?新しいロゴを作るのをおっくうに感じたのか、意図的なものなのかは不明ですが、そこを残したのは良い判断だったと褒めてあげたいです。
福岡のνガンダム立像も、元の黒だと軍事兵器に見えるから、もっと平和的に見えるトリコロールカラーにしてほしいっていう富野の要望があったそうですが、最初のRX-78の時からそう。絶対に武器は持たせない事と言ったのは富野。このセンスは本当に素晴らしい。ガンダムの生みの親がそういう指示を出した。単純にファンの目線なら、アニメと同じものが見たい、ビームライフルも持たせた方がカッコ良くない?と思いがちだけど、その発想にNGを出す富野は本当に凄いし素晴らしい。
Gレコのロゴ内にはガンダムの名前を残したのは、もしかして保険をかけたのかもしれませんが、そこは良い判断だったと思う。「ガンダムシリーズ」という枠の中の一つなら、もしかして50年後も生き残る可能性はある。けれどガンダムシリーズの枠の中に入らないなら、それはきっと残らない。
それこそ「イデオン」クラスの日本アニメ史、日本映画史に残るくらいの衝撃を残しても、それはマニアが選ぶ名画的な存在にはなりえても、じゃあそれを若い人が手に取るのかと言えば、そんな事は無いですよね。
そこを考えたらガンダムシリーズの枠組みの中の一つにはなってしまっても、それでも残る可能性がある方を選んだほうが良い。
例え「ブレンパワード」や「キングゲイナー」「リーンの翼」が名作だとしても、やっぱりガンダムほどは世間に届かないじゃないですか。
あと一つ、50年後に残す為の一つの要素が、富野由悠季という作家の最後の作品という付加価値をつける事です。4部の感想で、不謹慎かなと思いつつ、あえておそらくは最後の作品になるだろうからって書いたのは、その辺の事情も込みの話。勿論、次の企画が形になればそれはそれで嬉しいけど、安彦さんも言ってたように、引退宣言っていうわけではないけど、普通に年齢を考えれば、この先もいくつか作れるとかそういう事はもう安易には言えないっていうね。
そういう意味では、富野にとってのこの作品は、ダイイングメッセージ・・・って言い方はしないか。人生の終わりが見えて来た時につけるエンディングノート的なもの、死ぬ前に残したラストメッセージと思っても良いのではないかと。そこ考えたらねぇ、こんな2部作連続公開とかじゃなく、もう1年とか余裕持って作らせてあげてよ?功労者に対してこんな酷い仕打ちはねーぞ?と思っちゃいますけどね。
いや、万が一この先、新約ZZとか新約Vとか、キンゲもブレンも総集編作らせてあげてくれて構わないけど。
でもって、そもそも何故50年持つ作品とか言い出し始めたかと言うと、半世紀で世の中が変わったから。ここはね、富野も読みきれて無かった部分ですよね。近年になってから、人間は宇宙になんか住めねーぞ!とか突然言いはじめました。
Gレコの企画段階では、軌道エレベーターがスペースコロニーの代わり程度に思っていたそうですが、実際に調べて行くと、そんな楽観的なものではないし、そもそも人類が宇宙に進出していくなんていう時代では無くなってきたという悲しい現実をつきつけられたのが大きい。
富野って世代的に、第二次大戦を子供の頃に経験して、その後の冷戦の最中の宇宙開発競争があって、月面着陸とかを見た世代ですよね。高度成長経済があり、どこまでも発展・成長していく世界を生きて来た。だから宇宙を夢見て、スペースシャトルや、最新の科学に基づくスペースコロニーとかを信じる事が出来た。そしてだからこそ、当時新人類なんて言われてた世代として、ニュータイプなんていう概念に辿りついたりしたわけで、そこは時代背景ありきの話。
ただ、ポルノグラフィティの「アポロ」っていう曲じゃないけど、そこに夢や希望を抱いていた時代でさえ遠い昔になってしまったし、実際に各国の宇宙開発への予算は削減される一方。そこに新しいフロンティアなんて無かったと宣言されるのを目にし、社会学で言う所の、大きな物語の終わり、無限に発展していけるなんていう資本主義の幻想は見事に打ち砕かれ、この世界そのものが路頭に迷う事になってしまった。(だから「リアルは地獄」とか言ってるわけで)
そりゃあ、あの世代にとってはショックでしょうね。宇宙に未来なんか無いんだよって言われたら。
ただ、軌道エレベーターの取材であったり、ガンダム立像なんかの取材で、科学の最前線で活躍してる人達は、口を揃えて言う訳です。自分はガンダムとかが好きだったから今の道に居るんだ的な。
「ガンダムエース」が創刊されたくらいの時、20周年から30周年の間くらいかな?対談とかでガンダム世代が社会の最前線で頑張ってるのを実感して、最初は富野も無邪気に喜んでました。そこは「教えて下さい富野です」とか読むとわかります。
ただそこから更に10年くらい経って、今の状況になると、流石に富野も察したのでしょう、あれ?どうやらガンダムのような未来にはこの世界は進まないらしいぞ?ガンダム世代を自分はもしかして間違った道に進ませてしまったのでは・・・?
という実感があったからこそ、「Gレコ」は既存のガンダムを全て否定して、今からでも今度は次の世代の為の修正したガンダムを作ってあげなければ!それがせめてもの罪滅ぼしというものだし、スケベ根性で言えば、富野さんはただのホラ吹きじゃなくて、ちゃんと反省して、次の時代の事も考えていたぞ!と汚名を返上できると考えた。それがGレコという企画。
だからスペースコロニーとかニュータイプみたいな嘘八百(あくまで結果的にそうなってしまったという話ですが)ではなく、ちゃんと次の時代を読んだ、次の世代の為の物語を作ってあげよう、となったわけで、そこが「子供達に見てほしい」という発言になっている。
ただそこは凄く富野的で、まさしくそれはエゴイスティックな押しつけであり、本人的には善意でやってるつもりでも、それはとてもじゃないけど伝わらない。「子供達にこの物語を楽しんでもらいたい」なんていう気持ちは端から無い。今は伝わらなくてもいい、次の世代の50年後に伝わるはずだから、と言ってるのはそこなんだけど、そもそもガンダムが受けたのって、設定が優れていたからとかではないですよね?もっと多層的な部分があってこそ受けたし、生き残ってるというのを富野は頭でっかちすぎて理解が出来ていない。
そして富野の作家性というか、まさしく手くせで作ってるからなんだけど、基本的に富野作品と言うのは、舞台だけ作って、そこに大量のキャラクターを配置するという作りをずっとしてきている。その配置したキャラクターをリアルなものとして描く事で、キャラクターが勝手に動いて、そこから話が広がる。けれど、それで全体的な物語が上手く動くかと言えば、上手く行くケースもあれば、そうはならないケースも出てくる。
シロッコとかギンガナムとか、とりあえずこいつを倒しておけばそれなりの収拾がつく的な悪役がいきなり出てきたりするのはその為。(勿論、シロッコもギンガナムもただの悪役以上の面白いキャラクターにはなりますけど)
Gレコもそう。個々のキャラクターは凄く面白い。舞台背景も相当に深く練られた設定になってる(富野が伝えたい事はその背景に集約されてる)。
とりあえず、主人公のベルリを軸に、彼が世界の果てまで行って戻って来た時に最初の自分とは違う景色がそこには広がっていた的な話にはなっている。
うん、でもさ、ベルリくらいはかろうじてそういうものと思えても、回りの他のキャラが何を考えて何をやろうとしうてるのかがさっぱりわからない。富野も描き切れなかった部分があるって認めてたけど、アイーダ姉さんは?彼女はどう変わったの?てゆーかマスクって結局何者なのよ?ルイン・リーでしょ?という話では無く、結局マスクは何をしたかったの?
Gレコはキャラクターの行動理念がよくわからない、舞台や状況背景の説明が無く(そこはあえての演出みたいです)、専門用語を羅列されても何が何やらわからなければ、各々のキャラクターがどこを目指しているのかもわからないので、何もかもがわからないという印象になる。
逆に言えば、そこがわかるキャラクターは物凄く魅力があるわけです。マニィ・アンバサダーとノレド・ラグはみんな好きになる魅力的なキャラクターですよね。それは見てる人が彼女らは何を求めているのかがわかっているから。
今回もEDで流れるドリカムの主題歌「G」
モビルスーツは進化してるのに、僕は伝えたい言葉を選ぶのさえ上手くいかない 一体何がしたいんだ?
的な歌詞ですけど、吉田美和からこんな歌詞を突きつけられてそれに応えねばと思ったとか言ってるけどさ、こんなのGレコ見た人はみんな思うわけですよね。一体富野は何がやりたいのかよく伝わってこない。
「∀ガンダム」の時にさ、主題歌を頼んだ西条秀樹に「あなたは説明が下手すぎて何言ってるかわかんないし、そもそもこっちだって何十年やってるプロなんだからそれを信用しろよ!」って怒られて富野がへこんだっていうのから、何も変わって無いという。(いやそもそも人なんてそうそう変わらんものだけど。年取ったら尚更)
Gレコがそういう作品になってる原因は一つ。舞台背景やバックグラウンドに富野の主張やテーマを詰め込んでるのであって、キャラクターにそこを託して無いから。キャラクターの細かい部分は相変わらず面白いんですよ一挙手一投足いちいち面白いし、そこを見ているだけでも飽きないくらいの面白さはある。
でもマスクの話に戻ると、自分はクンタラの系譜であって、エリートのベルリは許せないという感情に突き動かされる。これをね、単純な劣等感・出自によるコンプレックスをこじらせただけならまだわかりやすいんですよ。そこは感情だから。なのにそこで富野の本来の主張やテーマである「クンタラの歴史」という、一見意味不明なものを背負わせたりするからわけわからなくなる。
富野自身がチヤホヤされたい自己顕示欲の塊であり、劣等感の塊みたいな人なんだから、単純に自分のコンプレックスをマスクに乗せてしまえばそれだけで十分面白いドラマは描けるはずなのに、実際のGレコのテーマはそこには無いから、え?何でこの人戦ってるの?前回のラストは、強すぎる力に対する否定とかを主張してたのに、今度は自分のコンプレックスに走ってみたり、違う場面ではマニイの為とか言い出したりする。どういう事?
先ほど例に挙げたシロッコやギンガナムの方がまだ彼らなりの主張があった分、そこに納得は出来た。当然、シャアにもなれず、クロノクルにさえなれないのがマスクでした。凄く勿体無い。
あとはTV版と変わらないと思うけど、今回物凄く好きなシーンがあって、メガファウナをアメリア軍の管轄に戻して、体勢を立て直しましょうってなった時、アイーダさんはもうアメリアの傘下には戻らない。自分達が見て来た世界を彼らも知っているとはとても思えないからっていう言い方で、独立したままの存在であろうとするんですね。(予告にもセリフ拾われてるシーンです)
色々なしがらみや背景、状況はわかってるけど、これからはただ流されるだけでなく自分の目で見て、自分の頭で考えて、ちゃんとした自分の考えを持って行動していきますよ、と宣言する。
このシーン一つだけでもね、ああGレコって良い作品だったな。ここまで見てきて良かったなと思える部分でした。
残念ながら私はGレコで描かれたような若者に感情移入とかは出来ない歳ですが若い子がこんな感じで目覚めてくれたらさ、やっぱり見てるこっちまで嬉しくなってしまう。
当然かつてのそういう時期を踏まえての今の自分っていうのががあるわけで、ちゃんとした勉強をして、世の中の色々な事を自分の中にストンと落とし込む、いわゆる「腑に落ちた」感に至った経験や積み重ねがあるから、何に対してもちゃんと自分の考えを自信を持って言えるようになりました。
余計な御世話だけど、若い人に言いたいのは勉強って凄く大切です。自分の考えにちゃんとした根拠や理論があると、人から何を言われても揺るがなくなるので、堂々としてられます。
「Gレコ」TVシリーズは義務感だけで見て、1ミリも面白くなかったけど、劇場版5部作でようやく真剣に向き合う事が出来て、Gレコとは何をやりたかったのか?Gレコとはどういう作品なのかをそれなりに理解する事は出来ました。ここまできてようやく腑に落ちた。
ただやっぱりこれが今の世間に受け入れられるものとは思わないし、相当に難易度が高い作品である事は間違いない。
でも以前にも書いたけど、「Z」だって今は周り回って理解度は高まったわけじゃないですか。富野じゃないけど「ガンダムX」だって、昔と比べたらいくらかはそのテーマ性とかでも認められる部分がようやく出て来た印象もある。富野が何と言おうが、Gレコはガンダムシリーズの一つです。今後、Gレコに対しても読み解きが進んで行けば、それなりにまた別の評価軸も見えてくるのかもしれないな、とは思います。
あ、Gレコ理解したとか言ってますけど、まだわかんないとこありました。ラストで敵も味方もジットラボラトリィのMSで埋め尽くされたのって何故?わざわざセリフまでありまたよね。ジット団と同盟を組んだマスク陣営はまだしも、アメリアのクリムとミックまでジット団MSに乗る意味ってありました?色々なMSが見れるのは楽しいけど、みんな禁断のMSに乗りたがるっていう皮肉なのかな?
なんだかまた最初から見返したくなってきました。う~ん、思う壺かも。
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