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Go!プリンセスプリキュア オフィシャルコンプリートブック

Go!プリンセスプリキュア オフィシャルコンプリートブック (Gakken Mook)

刊:学研 Gakken Mook
2016年
☆☆☆☆☆


ヒープリトロプリが間に入ったのでしばらく経ってしまいましたがゴープリまとめ的な感じでコンプリートブックにかこつけて色々と語る。(また1万字超えになっちゃったので読む人はご注意を。)では、お覚悟はよろしくて?

 

コンテンツ売上的な所で、前作の「ハピ」で一気に落ち込んでしまって、「ゴープリ」が最底辺を記録してたりする作品ですが、丁度ここは「妖怪ウォッチ」が大ブームになった時だったはず。男児だけでなく女児までその人気が普及してモロに影響を受けた感じ。

 

後はプリンセスモチーフという所も2013年の「アナ雪」ブームの影響も大きいはず。世間の流行をすぐに自社作品に落とし込むって東映の昔からのお家芸ですしね。2018年の「シュガーラッシュ」でディズニープリンセスを集結させるとかをやってましたし、単純にディズニー映画のお姫様としてのディズニープリンセスというカテゴリーは昔からあったものの、商品展開としてそういう括りで売り出すってのも、この辺りの時期から目立ってきた印象もありますね。

 

今はおもちゃ屋さんに行くと、プリキュアの他に「ガールズ×戦士」とか「ディズニープリンセス」っていうコーナーがちゃんと一角を占めてるような状態にありますので、その辺りはコンテンツとして興味深い所です。いや私はプリキュアオタクなだけで、その辺全般に詳しいとかでは無いのでよくは知らんけども。

 

個人的な所で言えば、ゴープリはシリーズディレクターが田中裕太って発表された時点で期待大でした。

 

プリオタ的には有名なのですが、一応そこまで詳しく無い人の為に説明しておくと、
プリキュア育ちの演出家で、多分一番有名なのは「スマイル」43話だと思います。キュアビューティー/れいかさんのキャラソンが挿入歌として使われた話で、これが元々挿入歌用として作られてたわけではなく、普通にボーカルアルバムに入ってるただのキャラソンでした。各キャラのお当番回の最終エピソードをやってる時期で、各話で同じような演出がなされていたのかと言うと、そうではなくて、ビューティのみが挿入歌として使われて、超絶演出も相まって、ハッピーのセリフじゃないけど、「ビューティ、すごい…」としか言いようが無い、いわゆる神回と呼ばれる話数。(個人的には神回とか安易に使いたくは無いけども)


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他にも「ドキ」40話でも田中裕太演出で、そこでも挿入歌演出とかやってました。挿入歌演出って、印象に残りやすい半面、作る方は凄く大変らしく、曲を使う許可とか含めて凄い手間がかかるものらしい。それでも挑戦するような演出家だったわけです。


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自分の作品でももちろんやる。


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プリキュアシリーズでは「5」のうららのキャラソンレコーディングに大塚さんにつれてってもらったとか以前にツイッターで言ってましたし、その辺りで東映に入社して、演出補的な所から「フレ」でコンテをやるようになって、「スイ」で演出家として一人立ちした人です。「スイ」だと一連のキュアビート誕生編で23話が物凄く良いですし(アホ毛ギターもこの人の演出)


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最終決戦の47話でのバンクを使わない必殺技の連発とかも特徴的な演出。

「ドキ」33話でのロゼッタ戦闘モードとかもそうですし、印象に残る演出を度々手掛けてきたのが田中裕太という人。

 

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「Febri増刊プリキュア15周年アニバーサリーブック」という本で、演じた歴代プリキュア声優が選ぶこの一本、みたいな企画があって、ここでも田中裕太演出回がメチャメチャ多く選ばれてたりします。

Febri特別号 プリキュア15周年アニバーサリーブック

 

そんな人がはれてシリーズディレクターを担当するというんだから、これは相当に面白いシリーズになるんじゃないの?という期待感はありました。ただ、その反面、基本的にはディティールに凝るタイプの人だから、もしかしたら相当にオタクくさい作品になっちゃう可能性もあるんじゃないの?という心配も同時にちょっとあった。プリキュアが深夜アニメみたいになっちゃったらどうしよう?みたいな。

 

私もオタクなのでそれはそれで楽しめるとは思うんですけど、やっぱりプリキュアって深夜アニメとは違う文脈だからこそ面白いっていうのはありますよね。「スマイル」なんかはそんな所が逆にオタク受けしたんだと思うし、結果的に一番アニメファンを納得させられるプリキュアは「ゴープリ」かなと思うのですが、心配してた程にはオタク向け作品によらず、きちんと子供達に向けた作品作りというのは気をつけてやったというのは見えて、特にプリキュアシリーズの中では異色作って感じになってるわけではない。

ただそれでもね、確かプリキュア新聞でだったかな?東映アニメの統括プロデューサーとしてここから再びプリキュアのクレジットに名前が載るようになった鷲尾Pが「メインターゲットよりも少し成長して大人になってから気付くものが多い作品になってしまってた感はある」みたいな事は言ってました。

 

じゃあゴープリはどんな作品だったのかと言えば、「ヒープリ」のコンプリートブックでも書いたんですけど、ここを基点にプリキュアの3期目とも言える作品になってたんじゃないかと。

 

前に書いた奴の繰り返しになりますが、1作目の初代無印「ふたりはプリキュア」から5作目「YES!プリキュア5GOGO」までが1期。ここもバディ物からチーム物に変わっていった変遷なんどもありつつ、「どこにでもいる普通の女の子がたまたま世界を救ってしまう」というコンセプトが根底にありました。日常重視で、結果的にヒーローになった、ぐらいだったんですよね。

 

これが4作目の「フレッシュ」になると、プロデュサーが交代したのもあって、ちょっとカラーが変わって最初から「スーパーヒーロー物の女の子バージョン」的な作品になってるんですよね。ニチアサ枠としてライダーや戦隊と並ぶ作品として十分に認知されてきたという背景もあるでしょうし、フレで特徴的なのって、町の人にちゃんと町内ヒーローとしてプリキュアが認知されてるという設定なんですよね。


事件が起きた時に、警察に「プリキュアです」って言って現場に入ってくとこはある意味シュールで面白いシーンでした。主役のキュアピーチ桃園ラブを演じた沖佳苗さんが特撮ファンというのもあって、大好きな「ダイレンジャー」を意識して演じてたって言ってたのも印象的なエピソードです。

 

9作目の「ドキドキ」で最終回には政府公認のヒーローになったり、続く10作目「ハピネスチャージ」では神様の元で世界中でプリキュアがヒーロー活動をしていて、プリキュアならプライベートまで制限しろとか言われる程になってた。そうしてテーマ性の継続と、インフレが限界に近いまでになってきていたと。

 

そこを受けての「ゴープリ」という作品があります。
この「プリンセス」以降「魔法使い」とか「お菓子作り」とか見た目にもわかるモチーフの明確化という部分を評価して、そこが変わったと言われがちですが、そこも勿論、その通りなんですけど、テーマ性の変換がここで行われているというのは見た目だけではわからないので、あまりその辺りを語る人は居ないようです。

 

私もその辺を語ってる人、ツイッターとかブログで片手に余る程しか見た事ありません。なので多分他の人には書けないであろう事をこれから語れるかなと思います。

 

「ゴープリ」で何をやったのかと言えば、そこまでの流れの「ヒーローとしてのプリキュア」を受けて、じゃあヒーローって何?みたいな所に描き方をずらしてきたんだと思います。どんな人がヒーローと言われるのか、どんな行為がヒーローらしさと言われるものなのか、みたいな所って、割と他の作品でも描かれる部分ですので、そこは決して珍しいものではないと思います。

 

「ヒープリ」まで引き継がれていった部分もあって、そこはヒープリ本編の感想でも書きましたけど(ただまとめきれなくなってそのまま出しちゃいましたが)日本のヒーローって自己犠牲型が非常に多い。「アンパンマン」がその典型で、あれは作者のやなせたかしが、戦後のまずしい状況の中で、自分の身を削ってでも貧しい人に食べ物を分け与えていた姿を見て、これが本当のヒーローなんだって思ったというのが原点になったというのは割と良く知られている方だとは思います。日本人の感性とも上手くマッチしてると思いますしね。

 

で、自分を捨ててまで他人を救うのが美徳ってそれどうなの?プリキュアは全能の女神じゃ無く、中身は普通の女の子なんだし、それに犠牲を強いるのは今の時代とはもう合わないっていう主張をしたのがヒープリだったわけですが、そこを転換期とするなら、やっぱり「ゴープリ」から「スタプリ」までが第3期という形になっていて、じゃあここで何が描かれてたのかっていうと、自己実現の物語なんですよね。

 

「なりたい自分」という「HUGプリ」とか、「多様性」のあるべき姿を描いた「スタプリ」(だって彼女らが変身する時は「♪あこがれの自分描くよ」って歌うんですよ)テーマ性がやや薄く感じられた「プリアラ」でさえ着地点はそれぞれの個性を尊重しようという所で締めくくられました。「まほプリ」も異文化をそれぞれに認め合うって話でしたよね。プロデューサーや監督・脚本家が違っても、この辺は大きな枠組みとしてちゃんとカラーが出てますよね。

 

「ゴープリ」に話を戻すと、劇中ではるかの将来の夢が「プリンセスになる」事だと語られ、そこがテーマになっていきます。スタート当初からそこは散々ネタにされました。じゃあ玉の輿に乗るって事なの?って。ただ、勿論それを本気で王子様捕まえて結婚するのが終着点だとは作ってる方も見てる方もそうは思ってはいません。(が!コミカライズの北上ふたごはそれやっちゃった。おいおい…)

 

はるかが劇中でプリキュアに変身した後は、プリキュアの目指すべき存在として「グランプリンセス」という言葉が出て来ます。そこは「ハートキャッチ」で家庭の事情から男装をしているいつきが、本当の自分を解放するという意味でキュアサンシャインに変身するというドラマが描かれてたのですが、サンシャインは変身しちゃうと正直それ以上のドラマが作れなかったんですよね。プリキュアに変身する事が物語のピークになっちゃった。そういった過去も踏まえてなのか、プリキュアに変身した後も、グランプリンセスを目指すっていう目標が設定されたのかなと思います。

 

で、ここで何が言いたいのかと言うと、はるかの「私、プリンセスになる」と、キュアフローラの「グランプリンセス」を目指すというのはイコールなのと、さらにこっから一番重要でゴープリの最も面白い部分だと思うんですけど、番組を見ているメインターゲットの「私も将来はプリキュアになりたい」という気持ちをリンクさせている所です。ここ、あまり語られませんがあきらかにメタ構造として描いてあります。

 

はるかの「プリンセスになる」「グランプリンセスになる」は見ている小さい女の子達が「プリキュアになりたい」って言ってるのともまたイコールとして繋がってるのです。

 

プリキュアになりたい女の子はじゃあどうしたら良いのでしょう?声優を目指してプリキュア役をゲットする。かもしれないし、アクションに強くなって、着ぐるみショーで中の人になるのもある意味プリキュアになったと言えるかもしれません。

でも、そういう事じゃないですよね。いや実際にプリオタから将来プリキュアになるって夢を見続けてきて実際に夢を叶えたキュアスターことえいたそみたいな人も居ますけど、そういう役柄上の話では無い。

 


「誰かを守りたい、そんなやさしい気持ちがあれば、女の子は誰だってプリキュアになれるのよ」という「NS1」でのミューズのプリキュア史における超超超超名言があります。「何でも出来る、何でもなれる」と女の子のみならず、人類全てを肯定してくれた「HUGプリ」という作品も今はあります。

 

プリンセスとは?プリキュアとは?立場や形式の事を言ってるわけでは決してありません。強く、やさしく、美しく、夢に向かって努力し続けるその姿勢、生き方こそがプリキュアであり、なりたい自分、なるべき自分だとゴープリは語ってくれます。

 

最終話で、プリキュアに変身する為のドレスアップキーは元あった場所へ返還されます。じゃあもうプリキュアに変身出来ないのか?時は過ぎて、大人になったはるかの姿も描かれますが、その手には透明なドレスアップキーが握られています。勿論、そのキーの劇中設定とかそういったものは一切語られません。それは、あなたたち一人一人が心の中に持つ、見えないドレスアップキーなんですよ、と言いたげです。

 

現実ではプリキュアに変身なんて出来ないと気付く日はいつかくる。でもね、変身なんか出来なくたって、きっとあなたはプリキュアのような存在にはなれるんだよ。困っている誰かを助けてあげたい、あるいはもっと先の自分に夢に向かって努力し続ける強さがあれば、きっとそんな生き方をしてる人が本当のプリキュアなんだと。ゴープリはそういう事を描いた作品でした。

 

なりたい自分に向って努力し続ける事。時に、また絶望が降りかかってきてもしかしたら負けちゃうかもしれない。でも、また次に向かって歩き出す。それがプリキュアであり、それがヒーローというものなんじゃないかと。

 

悪の組織と戦う事じゃなく、そんな自分に向かってGO!プリンセス=プリキュア

 

 

面白いのは、「ワンダーウーマン1984」の感想にも書いたんですけど、TVドラマでワンダーウーマンを演じた役者さんが、後々になってからも、あなたの姿を見ていたから私も頑張れたんだって、すごーく言われるようになって、女性に厳しい世相の中で時代を切り開いてきたあなたたち現実の女性の方こそ本当のワンダーウーマンなのよって言ってたというエピソードが私は本当に好きで、それに通じるものを感じます。

curez.hatenablog.com

 

所謂スーパーパワー的なものではないけれど、現実の中でも、その魂を体現する人こそがフィクションでは無い本当のヒーローだよ、だからきっとあなたもプリキュアになれる瞬間がきっとあるんだよ、と言ってくれる作品は素晴らしいと思う。

 

ただこれね、凄く理想論みたいな部分もあって。インタビューでフローラ/はるか役の嶋村侑さんが、役とご自身の似てる部分はありますか?っていう質問に、いやとんでもないと。はるかは努力の人なので、お手本みたいな存在であって自分に通じるとか言っちゃうのはちょっと気がひける、的な事を度々言ってました。

 

物語のキャラクターとして見てる分には、はるか凄いよね、良いキャラだよねとは思えても、そこと同じものを求められると、いやいやいやいや、自分なんてとんでもない、はるかの足元にも及びませんよってなっちゃうのはわかる気がする。


理想として見れても、特に同性の女性なんかだと、ここまで完璧さを求められるとそれはちょっと困っちゃうぞ、という感情もまた正直な所なのかも。

 

この「ゴープリ」のみの話じゃ無く、この時期(3期目)の理想論を掲げている時期は、一部では積極臭くてそこが気になる、あるいはストレートにそこが嫌いっていう声も多少目にするようになってきたんだけど、そこは正直大人の目線で語ったってさほど意味は無いかな、という気がしています。

作り手が子供達にこうなってほしいと作品に想いを籠めるのは良いし、それは当り前の事だと思うんだけど、メインターゲットではない大人のファンがこういうプリキュアは見たくないとか言いだしてしまうのは、それちょっとどうなのかなって気がするのですが、多分作ってる人はそういう大人の意見に耳を傾ける必要は無いという事は十分にわかってる気がするので、そこは私はあまり心配して無い。

 

むしろそういう理想論や時に積極臭いメッセージはどんどん入れて欲しいと思う派で、それこそ先に例に出した「ディズニープリンセス」がこの時期から特にプリンスレスを押しだしてきた所とも重なってきてる所に注目したい。

 

一応ここも知らない人の為に説明しておくと、「お姫様は王子様と結ばれて末永く暮らしましたとさ」というのを昔のディズニー映画とかでずっと描いてきた流れの上で、ある意味それがジェンダー感の押しつけじゃないか?女は男の添え物じゃないし、今の時代の価値観にはそぐわないのでは?っていう反省から、これまでそんな価値観を描き続けてきたディズニー映画自体が、自己反省としてあえて王子様には依存しないプリンセス像っていうのを押しだしてきたのが丁度この辺りの時期に重なると。

 

ただこれってね、プリキュアでは最初からコンセプトとして持ってるものです。同じ東映の先の同ジャンルヒット作である「セーラームーン」との差別化的な部分もあるにはあったようですが、タキシード仮面的な存在には頼らないというのは意図的な作風ですし、初代の頃からのインタビュー記事なんかを読んでもそこはちゃんとストレートに言ってます。男性優位的な価値観に繋がるものは描きたくないと。「女の子が自分の足で凛々しく立つ事」それがプリキュアの最初からのコンセプトだっていうのは初代の頃から、今の時代までずっと言われ続けてきて、プリキュアプリキュアたるアイデンティティの一つです。

 

そんな感じで、ディズニーが反省して作風を変えてきた部分は、プリキュアだともう最初から持ってるものなんですね。勿論、だからディズニーよりプリキュアの方が作品として優れているんだとかいう優勢をつけたいわけじゃなくて、逆立ちしたってディズニーの歴史にはかなわない部分はありますし、そこはどちらも素晴らしいとしか言いようが無いので変な感違いはしないでほしいんですけど、そういった部分部分で考えた時には、プリキュアってあの世界のディズニープリンセスよりも先を行ってる部分も実はあったりするわけです。

 

その辺りの所は私はプリキュアのとても面白い部分だなと思ってるし、そんなある意味ある部分ではディズニープリンセスより先駆者のプリキュアというコンテンツが、「プリンセス」をテーマに掲げた作品がこの「ゴープリ」という作品なんだと思うと、そこってメチャメチャ面白い部分だと思いません?

 

だからこそ、「ゴープリ」から「スタプリ」までのプリキュア3期と言う枠組みで考えた時に、そこで描かれたテーマ性の強い作風というのはとても興味深いものだと私は思ってますし、それこそここで主役を務めた声優が、理想の姿ですから、って行った事がその次の「ヒープリ」で、ある意味での問題点として指摘されて、プリキュアは決して誰にも都合の良い女神様なんかじゃないんだよ、と言ったりするのは、ちゃんとプリキュアシリーズを縦軸として見た時に、きちんと流れを踏まえたものであったりする事は理解しておきたい。

 

この構図って、そこに至るまでの流れの中でもちゃんと描かれていて、「オールスターズメモリーズ」で子供をあやすのに疲れたはなちゃんが、ハリーに「プリキュアなんだからしっかりせいや」的な事を軽く言われて、初代が「プリキュアだって普通の女の子なんだよ」って反論するシーンありましたよね。「普通の女の子がたまたま世界を救う」というコンセプトの1期組がそれを言うってのが面白い所です。

 

1期「普通の女の子」→2期「ヒーローとしての進化」→3期「理想像の追求」という仮説が成り立つとしたら、ヒープリののどかちゃんはまさしく普通の女の子として描かれたキャラだったわけで、ある意味でのループ構造・循環みたいにも思えて面白いですし、当然進化し続けるのがプリキュアですから、ただ最初のコンセプトに戻したとかではなく、4期目はまた4期目なりのテーマってのが今後はもっと見えてくると私は思います。

 

さらにここでまた面白いのは、いわゆる女児向けアニメの歴史って、「セーラームーン」にせよ「どれみ」にせよ他社作品にせよ3~5年くらいで終わっていて、そこはキャラクターを変えずに人気があるかぎり続けて、長くやってると逆に新規客が取り込みにくくなるので、そこで一度終わって、また1から新しい作品を立ち上げる、というのがプリキュア以前の過去の通例でした。

 

その中で男児向けの「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」に習ってタイトルのみ継続してキャラクターは入れ替えるというコンセプトに女児向けでも挑戦してみたのが「プリキュア」だったというその辺の事は「S☆S」の記事にも確か書きました。そこで初期に試行錯誤もありつつ、上手く軌道に乗せられたのがプリキュアで、今となっては他社の女児向け作品もそれに習って代替わりする作品が普通になってきました。

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ああ、ヤバい、今更でごめんなさい。ちゃんと説明して無いけど、プリキュアの1~4期目とかいう分け方は東映なりバンダイなりの公式的なものではありません。一応。私が勝手に言ってるだけですが「15周年アニバーサリーブック」でも似た感じの解説はされていましたので、プリオタ的には俯瞰して見た時に同じような感覚は理解出来るんじゃないかとは思います。

 

で、プリキュア以前のこれまではその3~5年くらいで全く新しい違う作品として立ち上げ直してきたという歴史を、プリキュアは長い一つのシリーズの中で実は同じように3~5作ぐらいづつでテーマ性の見直しなどをしながら変化させてきたのが結果として長期シリーズになっている理由で、それこそが長く続けてきていながらもある意味での鮮度を保ち続けて、常に面白い作品を生み出せてきた秘訣なんじゃないかと思うのです。

これね、上っ面だけ真似て、そうかプリキュアみたいにキャラクターが飽きられる前にどんどん代替わりさせていけば長いコンテンツになれるのかって思ったら、多分それは間違いだと思います。

 

そういう視点で見た時の「Go!プリンセスプリキュア」の価値や位置付け、或いは意味性って結構面白かったりしません?

 

それこそこの本で田中監督が言ってるけど、海に遊びに行くけど水着はNGとか、変な固定観念が根付いてしまっていた所に今回はメスを入れたと。深夜アニメのサービス回的なものにはしたくないけど、海に行って水に入らないのもそれはそれでやっぱり不自然。プリキュア名物のサンドアート回とかも先日のトロプリでメチャメチャ面白かったですし、ツイッターのトレンドワードにもなって良い意味での注目にも繋がったりはしてましたが、描き方に注意すれば別に水着って変な物でもいやらしいものでもないでしょ、要は描き方なんです、っていうフラットな考え方をここで一度提示したのは大きい。

 

「フレッシュ」でも一応は最後にそれぞれの道へという感じでお別れとかはしてましたが、(ただパッションのワープでいつでも合いにはこれる。後の小説版でもそこ生かしてたし)「オールスターズ」の事を考えると最終回でプリキュアを封印したり、成長して大人の姿になったりとかは描きにくいな~みたいなものも、一つの物語・作品としてそれを描きたいなら集合映画なんか気にせずやってもいいんじゃないの?というのが結果的にやはり完成度やテーマを高める事にも繋がって、後の作品もそれに習う事が出来ました。

 

プリキュア育ちの演出家だからこそ、自分がただの一演出家からシリーズディレクターという立場になった時に、これまで同様注意すべき点も理解していたし、逆に気になっていた部分の改定なんかにも踏み込めた事を考えると、そういう面でも新しいステージへ進められた作品になっていました。

ゴメンね、オタク臭いプリキュアになっちゃう可能性もあるな~とか勝手に余計な心配して。

 

と同時にそのオタク臭い拘りもまたゴープリの大きな魅力である事は言っておきたい。やっぱりOP一つからして違う訳ですよ。

 

まずはOP前のタイトルコール前の口上
「強く、優しく、美しく、真のプリンセスを目指す4人の物語。夢に向かって、Go!プリンセスプリキュア!」
単純にアバンとか挨拶とかは他の作品にもあります。プリアラのいちかちゃんの「ぐえっ」とかも実はとても好きです。でもゴープリは前口上なんです。これは何か?そう、スーパー戦隊ですよね。カラオケで歌う時にオタクはこの前口上まで入れたくなるやつです。ええ、私もやりますとも。

 

そしてゴープリは前期と後期で歌詞の1番2番を入れ替えてました。1番は初期3人のみ、2番は追加戦士のスカーレット要素の入った歌詞なんですよね。プリキュアだと「フレッシュ」「スイート」が前期後期で同じ曲のバージョン違いになってましたし、後の「まほプリ」もそのパターン。でもゴープリはあくまで同じ曲の1番2番の変更なんですよね。

似たような事をやってるアニメって多分他にもいくつかはあると思うんですが、有名所は何でしょう?パッとは思いつきませんが、個人的にこれで思い出したのが「宇宙刑事シャリバン」です。シャリバンはEDの方で、時期では無く話に合わせて1番だったり2番だったり変えてたんですね。あれを彷彿とさせました。私シャリバン好きなので。

 

で、スタッフクレジットとか歌詞のテロップまでグラフィカルな要素として処理してたり、何より凄かったのがストーリーが進む度にOPの登場人物が増えて行くんですよね。本に書いてあるけど、26バージョンもある。後期EDがプリキュア4人それぞれのバージョン作られたのもそこがあったから。

 

EDと言えば本編のラストカットもそう、今持ってるドレスアップキーとかが提示されるんですけど、それ今の仮面ライダーでやってる演出ですよね。最終回ではなんと「まほプリ」のロゴマークが出る。

 

ライダーと言えば、以前田中監督がツイッターで、今のライダーに苦言を呈したとかちょっと悪意のあるまとめサイトとかにとりあげられた事もあったんですけど、アイテム主導でドラマの方までそこに追われるようになっちゃってるのはちょっと見ていてついてけない部分もある程度の事だったんですが、ツイッター見てるとフィギュアとかガンプラとかで遊んでるのをよくあげてるんですね。


プリキュアもおもちゃを売ってナンボの商業作品ですし、そこは切っても切り離せないものではありますが、要はそこを上手くバランス取って描かないと作品としては破綻してしまいかねないっていうのを知っていて、そこはゴープリっておもちゃとかの兼ね合いとかも相当に気を使ってやってるなというのは見ていて凄くわかる作品でした。

 

「5」の時に、映画で一気にピンキー集まりました!とかやってたり、「スマイル」で中盤からの2週目でデコルが2個くらいまとめて出てきたり、この辺は過去のプリキュアでも苦労してきた部分です。ただ、販促ありきの商業作品である事を否定したら、多分そこでプリキュアは終了になります。

 

ゴープリはストーリーに絡めた16のドレスアップキーとトワイライトのブラックキー以外は作品内には出しませんでした。食玩とかガシャポンとかだとそれ以外のオリジナルキーもいっぱいあったのよ。あと映画のプリマベーラキーとパンプキンキーもありましたが、多分TV本編内では存在して無い扱いだと思われます。スカーレットバイオリンもおもちゃ主動で作られたもので、監督としてはそこも最初は脈絡もなく入れたくなかったものの、そこはきちんとドラマと絡めるという形で処理。そういや最後にゴールドキーもあったか。

 

要はバランスなんですよね。近年の仮面ライダーみたいに毎週新しいおもちゃを買わせるためだけの内容にしちゃうと、ドラマとしても物語としてもあまりにも悲惨な出来にしかならないってのよくわかりますし、アニメ側の都合だけでおもちゃとして発売されるアイテムをないがしろにしてしまったらそれは作品として成立しなくなってしまう。

 

ゴープリも正直言えば商業的に成功したとは言い難い部類ですが、その分、アニメ単体として観た時に完成度が高いと言われるのは、そういったバランスの作品だったという事なのでしょう。


個人的にも、プリキュアって実は凄くないか?という確信に変わったのも実はゴープリからで、「ハト」でプリキュアに興味を持って、「スマ」でハマって、「ゴープリ」で数あるコンテンツの中でプリキュアを私の一番の押しに変えてくれた作品なので、そういう意味でもちょっと特別な作品です。

 

先に挙げた「オタク臭いプリキュアになってしまわないかな?」という心配を杞憂だと思わせてくれつつ、それでもオタク的な拘りの部分がやはり面白さにひと役買っていたというのは否定できない所です。

ラスボスはあくまでディスピア、最後のクローズはラスボス戦後のライバル戦です、って言っちゃう辺りがまたオタク臭いですよね。勿論そこが最高なんですけど。

 

つーかまたいつのまにか1万字超えてしまった。本気で語るとまだまだ語り足りない感じですし、どこまでも行けそうですが、とりあえずこの辺にしておきます。

 

繰り返しになりますが、今の時点だとやっぱりゴープリは「現実でプリキュアになりたい女の子の話」だった、という部分が一番グッと来る部分です。そこは作品内ではストレートには出していない部分なんですけど、作中だと、はるかが子供の頃に読んだ「花のプリンセス」という絵本に憧れて、プリンセスになる事が夢というのが語られてますよね。キュアフローラは変身名乗りでこう言います「咲き誇る、花のプリンセス、キュアフローラ!」って。これだけでも明白ですよね。「Go!プリンセスプリキュア」という作品においては、はるかこそが「花のプリンセス」であり「花のプリキュア」なわけですから。

 

劇中内で花のプリンセスにあこがれるはるかと、現実でアニメを見ている女の子がフローラにあこがれて私もプリキュアになりたい!と思うのは全く同じ構造な上に、最終回では、大人になったゆいちゃんがこれまでの物語を絵本として記したものが「プリンセスと夢の鍵」になっていた事から考えても、メタ構造を意識しているのは間違いない。単純に、この作品はゆいちゃんが残したものだったんだ!とかで思考停止しちゃうと、その先まではかえって気付かないのかもしれませんが。(いやだってゴープリのこの部分を語る人ってあんまり居ない気が。)

 

で、これが田中監督の次のプリキュア作品である映画まほプリを通過して、あの映画スタプリに繋がっていくんですよ!?ここは縦軸で考えた方が100倍面白く見れると思う。映画スタプリも表層上は子供を思う愛情みたいな風に描きつつ、その本質はメタ構造の部分にこそあるし、それこそがあの作品を大傑作たらしめている所以ですので。

 

う~ん、でもゴープリにせよ映画スタプリにせよ、そこを語る人が少ないのが本当にもどかしい。いやだからこうして私が語る事にもそれなりに意味はあるんじゃないかと自負もするわけですが。もしその辺りを理解していただけて、作品を違う視点から見れたとか何かしらこれを読んでくれた人に多少なりとも影響を与えられたらこんなに嬉しい事は無いです。

 

コンプリートブックにかこつけてひたすらゴープリ語りをしてしまったわけですがいかがだったでしょうか。これでようやっと次に進めるので、次からはまほプリ語りに入りたいと思います。

 

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