僕はこんな事を考えている ~curezの日記~

見たもの読んだものなどの簡単な記録と感想のチラシ裏系ブログ

ヒーリングっど♥プリキュア

ヒーリングっどプリキュア Blu-ray vol.1

Healin' Good♥Precure
シリーズディレクター池田洋子
シリーズ構成:香村純子
TVアニメ 2020~21 全45話
☆☆☆☆★

手と手でキュン!ハートつないで地球をお手当て!

 

プリキュアTVシリーズ17作品目「ヒーリングっど♥プリキュア」遂に最終回を迎えました。今年は今までに例の無い新型コロナ禍というのもあり、ヒープリも一時は放送中断。9週程のリピート放送を経てようやく再開、通例より最終回を1カ月分伸ばして正規の話数だと45話、リピートを含めたヒープリの放送回数としては54週という大分変則的な形になりました。劇場版も春のクロスオーバー作品が秋になって、本来の予定の秋映画が春にスライドと色々な所に影響が出ました。

 

作品としては、こういうのは放送開始の1年前近くから準備はしてるので、狙ったものではないものの、「地球のお医者さん」というモチーフがあまりにリアルタイムなコロナ禍との同時代性を持ってしまったのが、幸か不幸かと言った所でしょうか。

 

スタッフ側は明確に「作品内のビョーゲンズと実際のコロナは別のもので、メタファー的に描く事は意図的に避けた」と言ってますが、時代の空気としては、そこをなんとなくでも重ねてしまう部分はどうしてもね、仕方ないとは思います。まさか歴史の教科書で習った疫病の流行でどうのこうの、っていうのが今現代の世の中に振ってかかろうとは思いもしませんでした。

 

そんなこんなでヒープリを見終わった直後の感想というか、思った事考えた事その他モロモロをとりとめもなく書き連ねて行こうかと思います。

 

あと、去年の「スタプリ」の時にも最終回直後の感想に書きましたが、見終わってる直後の熱を残すのが目的なので、多少は支離滅裂な部分があってもご容赦のほどを。少し時間をおいて冷静になってからのヒープリ総括みたいなものはコンプリートブックとか出てからでもまた書ければと思ってます。

※(スミマセン、書いてる途中で1万3千字超えてキリが無くなったので一度そのまま投降します。超絶雑文のままでよろしければ読んであげて下さい)

 

 

ええと、まずは終盤のダルイゼン消滅辺りでネット界隈が賛否両論結構賑わいました。「HUGプリ」の時も結構そうやって話題性が大きくなる事がありましたけど、そうなっていくと普段はプリキュア見て無いor語って無い所にまで飛び火しちゃうんですよね。それはそれで私は良い事だと思ってます。正直、ああちゃんと見て無い人の意見だなこれって思う物もあって結構イラっとする部分はあるんですけど、そりゃあ10数年分のシリーズ全部を見てるようなオタクとは見えてる物が違うのは当然だわな、と思います。

 

勿論それはどちらが正しいとかじゃ無い。例えば同じくシリーズを全部見てるようなオタクだったとしても、何をどう見てるかって全然違いますもの。同じものを見ても、そこから受け取るものって人によって全然違いますよね。1しか読み取れない人も居れば、10読みとる人も居る。しかもそれは違う物だったりしますしね。

 

これ、プリキュアっていうコンテンツの上でも結構重要で、プリキュアのメインターゲットは基本的には未就学女児です。小学校にすら入る前の女の子がメインの層です。過去作のスタッフインタビューとかでも「子供達はストーリーをきちんと理解して見ているわけではないんだけど」というのは何度も目にしてきました。そりゃそうだ。未就学児がプリキュアのテーマがどうのこうのなんて語るはずありません。その分、子供が見ていて飽きない絵作りっていうのは物凄く意識して作られています。だから一般向けとかオタク向けのアニメとは文法や方法論がちょっと違っていたりする。

 

例えば1年間の最後のクライマックス。プリキュアの最後の一か月ってオタク的には一番面白い所ですよ。でも子供達にとってはもう消化試合でしかなんですよね。次の新シリーズの予告が始まって、もうそっちの方に興味が移っちゃってる。

 

商業的にもクリスマス商戦が終わったらもう売るものがないので、1月って商品が出ない。例えばガチャガチャだってプリキュアは大体一か月に2つのペースで新しいガチャガチャが出てるんですけど、1月はもう出ません。この辺の割り切りがとても面白い。オタクだけがクソ盛り上がってるプリキュアのクライマックス!結構シュールじゃないですか。勿論、アニメを作ってる方も消化試合だとは思って無いのは見ていてわかりますし、怒涛の展開のラストひと月だけが大人が凄く盛り上がる形になってたりする。

 

私はオタクなので、そういった所まで含めてプリキュア面白いなと思って見てるし、ここまでブログでプリキュアの事をそういう視点で何十万字と語ってきてるわけですが、じゃあプリキュアオタクが皆そんな視点かつったら違いますもの。これは単純に私なりの視点っていうだけの話。他の人には他の人なりのその人ならではの視点ってあるはずなので、下手すりゃ間違っていると思える部分まで含めて色々な見方があって良いと思うし、それはそれで楽しい。

 

そんな前提ありきで、私が今回ヒープリに思った事を書き連ねていきます。
うん、ここまではただの前置きです。こっから本番。

 


やっぱり42話のダルイゼン浄化以降の賑わいがインパクト大きくて、今回は随分シビアな感じで来たな、と思ったのですが、その上ラス前の44話でのネオキングビョーゲン戦の「これは弱肉強食の生存競争だ」みたいな重ね方もあった。

 

「戦わなければ生き残れない!」というキャッチコピーを使ったのは私も好きな「仮面ライダー龍騎」ですけど、プリキュアで唐突な事をやってきたなという印象は正直持ちました。ただこれ、よくよく考えて行くと、ちゃんと最初から狙ってたというのは納得出来る作りになってる。

 

どの辺から話してこうかな~と思うんですけど、せっかくなので最初の印象と言う事で1話のみ書いてた自分の感想。

こちら

curez.hatenablog.com

当たらずとも遠からず、といった所でしょうか。
のどかちゃんがあまりにも良い子過ぎて逆に危うい、これは自己犠牲が後に描かれるんじゃないかって危惧してますね、私。でもプリキュアだからそれを良しとはしないで何かしらの捻りはあるでしょう、ってな事を書いてますが、まさにそんな感じの作品になりました。

 

しかもそんな素人予想を遥かに上回る、こうきたか!っていうちょっと驚かされる作りでした。いや流石はプリキュア。面白い。

 


フェミニズム文脈とロールモデルとしてのプリキュア

単純にダルイゼン周りだけを見ると、42話の「私はあなたの都合のよい時だけに利用される存在じゃないよ」的なのって、DV男と付き合ってる女性へのメッセージに受け取れたんですよね。もっとよく考えて自分を大切にした方がいいよっていう。この辺はスタッフもそういう感じの演出をしたって明言されてます。

 

ここはやっぱりフェミニズム文化としてのプリキュアっぽさが凄く出ていて、よくプリキュア素人が最近のプリキュアは子供番組でそういう大人のフェミニズム感を押しつけていて気持ち悪い、的に言われがちですが、そこは大きな間違いで、ジェンダーロールからの解放は初代プリキュアからずっと描かれているテーマの一つです。ネットで話題になったからそこだけ知ってるという人が多いんだろうなと思いますが、そういう人こそ一番最初のプリキュアから見直してみたら?と提言したい。

 

今回のシリーズ構成を務めた香村純子はプリキュアでは初のシリーズ構成役です。ゴープリから各話脚本では何作か入っていたものの、話の全体を総括する形では初です。香村さん、スーパー戦隊ファンで、スーパー戦隊の話を書きたいから脚本家になったという人なので(「ゴーオンジャー」でデビューしてその後「ジュウオウジャー」と「「ルパンレンジャーVSパトレンジャー」でメインライターに。そして新作の「ゼンカイジャー」も香村さんがメイン)プリキュアの方にはそんなに思い入れはなさそうですが、じゃあ自分がメイン脚本になったら何を軸にしようかってなった時に、恐らくは初代プリキュアでもジェンダーとかフェミニズム要素とか踏み込んでたし、そういう視点がプリキュアらしさかな、という感じになったのかなと勝手に想像してます。これはインタビューで言ってたとかじゃなくあくまで私の勝手な想像ですので、その辺はご注意を。

 

最終話のみ唐突に環境問題に切り込んできたり(そこはジュオウジャーでしたね)、モチーフの医療のみならず、生きるって何?とか詰め込み過ぎてちょっとゴチャゴチャになってしまった感は否めませんが、まあ最初の作品って大概はそういうものです。

 

これは同じく「HUGプリ」でシリーズ構成を務めた坪田文が、ずっとプリキュアやりたかったって言ってて、お仕事とかお母さんとかジェンダーとかやたらと要素を詰め込み過ぎて、いったいどこが軸なのこれ?っていうのと近いと思います。映画でも本でもそうですが、処女作にその人の全てが詰まってるって言われるのと、似たような感じで、とりあえず発表の場がいただけたんだから、自分の言いたい事を全部詰め込んでしまえと、そういうのが処女作の魅力でもあるし、逆に「ハピチャ」みたいに、前の作品があるのを踏まえて、「その次」の作品をやろうとした故の面白さって言うのもそれぞれにあったりします。

 

で、そういった所から出てきたジェンダー要素。申し訳ないですがそこら辺の問題にはさっぱり明るく無いので、なるほどなぁ女性はこんな風に感じてる部分があるんだなっていうくらいには思えても、私は男なのもあってか、身につまされる直面した問題って程には入り込めない要素でもある。


私は根っからのフェミニストって程の感覚は持ってないので、この手の問題だと、「もし自分がその立場に置かれていたら確かに嫌だな」ぐらいの感覚でいつも捉えています。実際にフェミニストの人達とかその手の活動をしているような人と会って話をしたりすると、え?そこもそうなの?的に思っていた以上の苦労を知るケースも多いのですが、それでもまだ親身になって考える所まではなかなか辿りつけてはいないのが正直な所。とりあえずはこれまで通り、まず相手の立場に立って考えてみる、というイマジネーションは大切にしていかなければ、くらいな所です。

 

なので今回のヒープリにおけるジェンダー論に関する部分に関しては、え?こんな感じで切り込んできたのか、と割と新鮮でした。初代からの引き継ぎ要素として今回はこんな部分を取り上げて描いたのか、これは見た事無いなっていう面白味が私は大きかったかな?

 

ただ、そこを軸に考えると、ここでまた私の1話感想に戻るのですが、のどかちゃん、優しくって良い子だな、シリーズでも随一くらいじゃない?なんて思ってしまったのが、まさしく脚本家の掌の上で弄ばされていたわけで、そんな女の子が最終的に変化を得る物語だったわけです。「私はそんなにいいこじゃないよ」っていう。ここに面白味があるし、1年間の積み重ねでそれを描いた。

 

ここね、フェミニズム要素とも重なるし、何だったらプリキュア文脈とも重なる部分です。「女の子だから、優しく全てを受け入れる存在でありなさい」だったり「プリキュアだから、全てを救う絶対的な慈愛の存在でありなさい」を求める世の中に対して、いやそれはロールモデルの押しつけでしょ?だってプリキュアって「女の子だって暴れたい」から始まったんだよ?女だからって、プリキュアだからって、全てを受け入れる女神さまなんかじゃあないんだよ、私だって私の人生を生きてる。決して「誰かの為の私」なんじゃないよ、という主張がここにあったと。

 

プリキュアっていう存在の根本にジェンダーロールからの解放があったとして、「女の子はこうでなければならない」という物に対しての異議申し立てであり、同時に「プリキュアはこうでなければならない」に対してもヒープリは向き合ったという事です。そこはとても面白いなと思う。

 


■敵幹部浄化の歴史
文脈という面では、今回、助けを求める敵を容赦なく・・・ではないな、「ちゃんと葛藤や煩悶があった上」で最終的に浄化した事で、その足りが賛否渦巻く形になりましたが、ここはシリーズの文脈を踏まえた上で見ると、より面白いものが見えてくる部分です。

 

そこだけで一つの記事にしても良いくらいですが、敵を倒せなくなる、というドラマは1作目「ふたりはプリキュア」の時点からもうやってました。言わずと知れたキリヤ君ですね。主人公の一人の雪城ほのかキュアホワイトと心を通わせていく内に、自分の出生という宿命に翻弄されるドラマが描かれた、初代プリキュアでも屈指の名エピソードです。

 

キリヤ君はどシリアスなキャラ&ストーリーですが、プリキュアは子供がメイン視聴者なので、敵側にもコミカルな要素がちょこちょこと描かれます。これが極まったのが3作目の「スプラッシュスター」で、敵幹部が割と面白キャラになっていって、プリキュア側だけでなく、そっちの描写も面白くなっていきます。それでもそこまでは敵を最終的に倒してはいたのですが、敵側に感情移入しちゃうと、倒しにくくなる、という問題が発覚します。

 

なのでその次の「プリキュア5」では、敵を名前で呼ばなくなるんですよね。色々な敵幹部が出てきても、そこはプリキュア側からはかたくなに個人名では無く「ナイトメア」とか「エターナル」とか相手の所属する組織名でしか言わなくなる。最終的には倒す存在だから、(本当は「敵」とか「倒す」って言葉も適切では無いけど今回は割愛)変に感情移入させちゃダメだろうと。

 

ただここも、敵幹部のブンビーさんが演じる高木渉のアドリブもあって、もの凄~~~く面白いキャラクターに成長してしまった。無印「5」のキャラだったのに、あまりにも良いキャラだったので続編の「5GOGO]にまで予定を変更して登場した上に、最後は遂に和解して、プリキュアに「ありがとう、ブンビーさん」と遂に固有名詞で呼ばれる所にまで繋がったと。

 

(便宜上の)プリキュア1期でもこんな流れがあった上で、2期(フレ~ハピ期)はいわゆるヤッターマン辺りから始まる「三幹部」みたいなスタイルが踏襲されて、敵側のわちゃわちゃがより面白おかしく描写されるようになり、ほとんどが敵にも事情があったり、元は人間あるいは妖精が操られていたみたいな形になって、最終的に敵幹部とも和解するというのが定番化したと。

 

ただこれ、今でもそうなんですけど、敵ってアニメだけを見てる分には面白いし、プリキュアの面白さの大きなポイントの一つになってますが、先ほども取り上げたように子供は敵の面白さなんてそもそも見て無いし、商業上でも商品に絡まない存在なので、本当はそんなに大きくしちゃいけない要素なんですよね。プリキュアは商業作品なんだから、まず商品を売る事を目的にしろと、敵はただ倒されるべき存在でいいんだと。敵に割く尺があるなら、もっとプリキュアを出せっていう根本的な部分です。

 

実際にそういった御達しがあったのかどうかはわかりませんが、便宜上のプリキュア第3期になる「ゴープリ」では、序盤の方のインタビューで監督が今回は和解じゃなくて、きっちり敵を倒すスタイルでやると答えてました。でもこれが・・・結果的に守られなかったのはご存知の通り。最初に散った敵幹部のクローズがあまりにも演技凄すぎて、一度は退場したものの、主役のフローラのライバルキャラとして、ラスボス戦後の最終戦までまかされるまでに成長。シャットとかロックも結果的に最後まで生き残る形になりました。挑戦は見事に失敗に終わったと。

 

で、次の「まほプリ」では、敵のデザイン的に瞳を入れずにクリーチャー感を強めて、ボスキャラも人外にしてお題目は何とか処理。更に次の「プリアラ」では最初の1クール目には敵幹部をそもそも出さない、という描き方をしてきます。

 

続く「HUGプリ」「スタプリ」では以前に戻った感じですが、プリキュアシリーズはそういう問題をずっと抱えてきていたわけです。

じゃあそこでヒープリはどうしたのか?敵幹部も設定上は別として、見た目はそんなに人間と変わらない容姿。・・・それを普通に倒す!というストロングスタイルで来ました。いやそもそも子供達は敵なんかどうでもいんだし別に普通に倒したらいんじゃね?

 

やってくれたな香村女史!流石は特撮畑出身。

 

というのは半分冗談で、実際は敵を擁護出来ないタイプの悪い奴にしてしまえば、倒されるのもやむなし、という感じで描いていたそうです。要所要所で敵のわちゃわちゃした面白い部分は確かにありましたが、基本はグアイワルとシンドイーネのターンですよね、そこ。ダルイゼンだけは逆に要所要所でこいつ酷い奴だって話をちゃんと入れてましたし、グレース/のどかがもしダルイゼンを受け入れていたらっていうのは28話のケダリーがおそらくシミュレーションというか、新しい敵幹部かと思いきや、1話のみで処理されたのは、ラストを想定した上で、またのどかが病気になったら本人も回りもこんなに苦しい思いをするんだよ、っていうのを計算して先に描いていたんだろうなと今なら理解出来ます。あの話見たら、再びのどかがダルイゼンを受け入れるとか無理なのわかるでしょ?っていう話だったのかと。

 

過去シリーズの文脈と、ヒープリ単作での役割や主張、それぞれに意味があってその辺りを踏まえてみると、また違った部分が見えてより面白く感じられました。

 


■「生きる事は戦う事」ゼロ年代のサバイバル文脈としてのプリキュア
でもって、そういうシビアさを、女性ならではのリアリスト感覚と一言で言ってしまえば簡単ですが、私はその背景にある常に抑圧されてきた女性としての気持ち、とか理解しきれないわからない部分もありますし、そこは単純にコロナ禍だから甘い事を言ってられない世の中って言う程に単純化するのも、それはそれで一つの形としては確かにアリだけど、それで全てを納得出来るかと言うと、まだちょっとモヤモヤが残るんですよね。

 

じゃあこのリアリズムって何だろう?と考えた時に、こういう厳しい時代に、まずは自分が生き残る道を選べって言う主張は、ゼロ年代以降のサバイバル文脈に凄く一致する要素だなと感じました。で、そういう文脈で考えてくと、ヒープリという作品が私はストンと腑に落ちたのでした。ああ、ヒープリでやっているのはこういう事だったのかと。

 

ゼロ年代以降のサバイバル文脈って何かと言うと、宇野常寛ゼロ年代の想像力早川書房という本で定義されて、そこから広がって行った文脈のようですが、私は肝心のその本は読んで無いので明確な定義付けみたいな所まではよく知りません。

 

ただ、アニメにしろ漫画にしろアニメにしろ、そういったカルチャーの潮流としては自分も勿論通ってきた所ですし、多少なりとも社会学に触れてきた身として、その流れとしては自然と理解できる文脈です。

 

要は、高度成長経済の終焉、バブルの終焉で夢や希望に満ちていた時代はもう終わってしまったのだと。そこから先はもう必死になって生き残る事だけを考えた生存競争、サバイバルしていかなければならない時代なんだぞ、というような事です。

 

元の本には「バトルロワイヤル」から始まって「デスノート」とか「コードギアス」辺りをサバイバル時代の決断主義の象徴的として取り上げているらしいのですが、まあ近代化のポストモダンと呼ばれるような時代になって、その後に「エヴァンゲリオン」とかのいわゆる「セカイ系」社会がどうなろうと知った事じゃ無い、大切なのは自分の世界で世の中の事なんか自分は関係無いんだ、っていう路線ですよね。「天気の子」はまさしくそれでした。で、その次の潮流になったのが「サヴァイブ系」という事のようです。因みにプリキュアはちゃんと世界と向き合うのでセカイ系とは文脈的には合わない。

 

そこで「戦わなければ、生き残れない」の「仮面ライダー龍騎」ですよ。まさしく生存競争の社会。

 

社会学でよく例に出されるのが「いすとりゲーム」なんですよね。中央に何個か椅子が置いてあって、そのまわりを人がぐるっと回っていて、音楽がとまった瞬間に椅子に座って、座れた人が勝者っていうあれです。

 

今の社会ってこういうのと同じ構造になっているんだよ、という例えです。高度成長経済の時代は、10人居ればちゃんと10個の椅子があった。お金に余裕がありますからね。でも今の社会は椅子が一つか二つしか無いのにそれを何十人で奪い合っていると。

 

勝ち残れる、生き残れるのはほんの一握りの人間だけなんですよね。だから生き残るに必死なんです。昔から世の中は弱肉強食だって言う人も居るけどさ、例えそうだとしても、昔は例え特筆した能力がなくたって、そこそこくらいの人でもちゃんと座る椅子を確保できるくらいの余裕があったんですよ。終身雇用なんて今もう無いじゃん。大した能力があるわけでもなく、長く会社に居るだけでそこそこの役職とかもらえて、会社も高度成長経済だからお金払えたんです。

 

その少なくなった椅子を奪い合っているから大変なのに、勝者になった人は自分は勝つ為の努力を何倍もしてきたから勝てた、椅子に座れなかった奴はテキトーに過ごしてた自堕落な奴だから、負け組は自己責任って言っちゃうんです。そういう事を言ってるんじゃない、昔と違って椅子が無いんだよって言ってるのにね。

だから上手く行かなくて、生きづらさを抱えている人達にも、それはあなたの自己責任とかじゃなく、社会の構造なんだよ、と言ってあげなきゃダメなのです。勝ち組の言う自己責任論なんて信じちゃダメですよ。


で、まあそんな世相、時代感が反映されているというのがサバイブ系なわけで、仮面ライダーバトルロワイアルをする、というのが「龍騎」という作品でした。で、その魔法少女版が「まどかマギカ」です。両方見てる人は知ってると思いますが、まどマギ龍騎のオマージュ作品になっていて、モロパクリじゃねーか!と思えるくらいのシーンなんかもあったりします。

 

そんな「魔法少女まどかマギカ」の主人公、鹿目まどかを演じていたのが悠木碧です。ピンクカラーで名前も「まどか」と「のどか」と似ていたので、ヒープリが発表になってすぐの頃は「のどかマギカ」とかよくネタにされましたよね。

 

でもさ、サバイブ文脈を背景に持つという意味では、ただのネタじゃあなくて、実際にヒープリで描かれたのは「のどかマギカ」と言っても良いくらいになってません?これ、作り手が意識したのかどうかはわかりません。多分そこまではしてないでしょう。でも、単純に視聴者としては、見た時に同じ文脈を重ねて見る事が出来るようになってる。私もヒープリの終盤見てて、え~っ!マジか!?意識はしてないのかもしれないけど、そこって凄く面白くない?と思った。

 

そしたら悠木碧本人も「ヒープリ感謝祭」で、これまでも私は世界を救ってきたけど、何かしらの犠牲を払う事だけが世界を救う事じゃ無いんだなって今回のプリキュアに教えられたって言ってました。

 

まどかマギカ」ってね、こんなクソみたいな勝ち目のないサバイバルを強要されるのは、そもそもが世の中の構造がおかしいからだ!だったらもう全てのシステムそののもの根本から作り変えなくちゃこの世界は変わらないよ、っていう話です。

 

じゃあヒープリは何を描いたのかつったら、確かに世の中は生存競争なのかもしれない、そこはわかった。じゃあその根本を正すうんぬんよりも、まずはこんな過酷な世の中を私たちは生きて行かなきゃならない、まずはそこを認識して、なんとか生き延びる術を探そう、目の前の大切な人達と手を取り合って、私たちは負けないように戦っていくよ、というような感じですよね。

 

これ、どっちが正しいとか、どっちが劣ってるとかそういう事を言いたいわけではなくて、世の中もうおかしいから変えちゃおうぜ!的な夢の中で、あったような・・・話が「まどマギ」だとすると、まずは現実を受け入れてその中でどうするか考えていこうよ、っていうのが「ヒープリ」で、そこはこういう事を言ってはいけないのかもしれないけど、夢見がちな男性的視点と、現実のリアリズムの女性的な観点の違い、みたいに感じられて面白いと思いません?

 

悠木碧を通して見る二つの価値観の違いって、私はとても面白い要素だな、と思いました。声優的な所で言えばさ、私の1話感想でもちょっと触れてますけど、テアティーヌ役の戸田恵子、私的にはやっぱり「イデオン」のカララですけど、そこは置いといて、「アンパンマン」の人ですよ。


子供向け番組で何を言ってんだって思う人も居るかもしれませんが、(プリキュアだって子供向けですし)アンパンマンって戦後の食糧難に喘いでいた時に、飢えた人に自分の食料を差し出す人が居て、こういう人こそが本物のヒーローなんだっていう所から生まれたキャラクターです。自分の身を削ってでも相手を助けてあげると言う、自己犠牲型ヒーローの典型で、特に日本におけるヒーロー感に物凄く大きな影響を与えている存在。

 

そんなテアティーヌ様=戸田恵子アンパンマンから引き継ぎをしたのがヒープリだったわけです。因みにバンダイ的にもターゲットが0~2歳なアンパンマンの次に3~6歳くらいがプリキュアなので、そこも実際に引き継ぎみたいな要素があったりするのが面白い所。


自分を捨てても他人を救うのがヒーローだっていう自己犠牲論は、プリキュアだとヒーロー要素が極まった2期(フレ~ハピまでの時期)でやり尽くした感もありますが、それだけがヒーローの全てじゃないよ、ちゃんと自分の事も大切にしてね、っていうのは同時期の「キラメイジャー」でも同じ要素が描かれてましたし、コロナ禍という明らかな時代の節目が、やっぱり時代の変化・同時代性的な部分でこういったものにもリンクしてくるんだな、というのが感じられて非常に面白い部分です。「鬼滅」とかは見て無いのでそっち方面は私は知らん。

 

決して声優さんが物語を作るわけではないけれど、そういうのを軸にして考えるっていうのも悪くないと思います。とか思ってたら、ヒープリ映画には「若おかみは小学生」の、おっこちゃん役の人を起用と、なかなかわかってらっしゃる。

 

プリキュア3期(ゴープリ~スタプリ)が自己実現の物語だったとすると、間違い無く「ヒープリ」は、今という時代にリンクさせたものがありましたし、次の「トロプリ」も、今を大切に生きよう、みたいな感じっぽいですよね、その変化の節目を感じられる作品になっていたかなぁと。

 


「生きてるって感じ」から、最終回は「生きてくって感じ」に変わったのも、明らかにそれを想定した上で描いてたのかって思いますし、悠木碧も言ってましたけど、のどかちゃんを語る時に必ず最初に出てくるのが「やさしい」子だっていうのが、のどかの最強の強さでもあり同時に危険性も孕む部分だなって言ってたのが確かにそうで、「やさしさの搾取」にそれが繋がってはいけないと、私は誰もが思うようなやさしい良い子じゃないよっていう変化がやっぱり面白かったし、その隣にいるパートナーのラビリンもね、「危険な事に巻き込んでしまってゴメンね」って謝るのが本当に素敵でした。

 

当たり前だけどさ、プリキュアだから世界を救うのが当然、とかじゃないんだよ。ダルイゼンの件も、プリキュアだから救わなきゃいけないのかな?ってのどかは悩むんですよね。それに対してラビリンがプリキュアという使命感がそう思わせているのなら、そんなもの背負わなくていい、のどかが考えた末に決断した答えなら、たとえそれが世界中を敵に回す事になってもラビリンがぶっとばしてやるって言いきった凄さ。そしてそう言ってくれる人が隣にいる事の素晴らしさ。いやもうここの下りも最高よね。

 

じゃあフォンテーヌとスパークルはどういう役回りだったかと言えば、フォンテーヌ/ちゆも夢を諦めるべきかどうか、という所で悩んで、よくばったっていい、やりたい事を全部叶えようよ、皆何かを諦めている時代だったとしても、諦めないんでいいんだよ、的な所を背負っていたと思うし、スパークルもまさしく時代的で、自己肯定感の薄い子がパートナーや仲間と出会って、自分はここにいて良いんだ、自分は自分で他人と比べる必要なんか無いんだってのを獲得するというか、そういう変化が描かれたキャラでした。すごーく時代を反映しているキャラですよね。その辺りもちゃんと全体的なテーマを踏まえた配置や物語になっていたと。凄くないですか?

 

ん~じゃあアースはどうだろう?個人的には初代2年目のシャイニールミナスとの違いが面白い部分かなと。攻撃特化型のアースと防御特化型のルミナスだと正反対ですけど、実際には人では無い精霊的な存在って部分では似てますよね。

 

で、最後に自分の力がラスボスを倒す切り札だってなった時に、アースはあっさり決断するんですよね。グレースの自己犠牲は否定するのにアースは良いのかよ!って突っ込まれてました。でもこれは私の決断ですからって。


で、ルミナスも決断はするんだけど、絵では泣いてるの。本当は皆と別れたくないけど、それが自分の使命だと受け入れて決断した。

 

初代プリキュア監督の西尾さんが言ってたんです。ファンタジーの物語というのは、最後は現実に戻ってくるべきだと。色々と冒険の中で経験したことを生かして、現実で生きていくべきだと。ファンタジーの閉じ方は今でもそうであるべきって自分の考えは変わって無いけど、プリキュアはなんだかこれまでの世界が続くよって戻しちゃったんだよね、って。

ひかり(ルミナス)も復活して、これまで通りの世界が続くようにしたと。そこ考えるとアースというか、ヒープリってやっぱりリアリズムな考え方が根底にあるのかもしれないなって思います。

またもそこを男性と女性の感覚的な違いかもね?なんて言っちゃうとそれはそれで安易な気もしますが。

 


■癒すと言うタイトルからの乖離によるギャップ

とまあここまで書いてきて思うのは、そもそも「ヒーリングっどプリキュア」というタイトルですよ。プリキュアっていう単語はプリティでキュアというのを合わせた造語ですけど、「ヒーリング」=「回復」で、「キュア」=「癒す」とか回復系の言葉が二つも入っていたら、なんとなくそういう作品だって先入観とかイメージとか持っちゃうじゃないですか。それに対して作品が突き付けるのは「生きる事は戦いだ」とかそういうリアリズム溢れる現実的なメッセージでしたので、結果的に、「え?思ってたのと違う」っていうギャップは結構大きかった気がします。

 

だって「ヒープリ」見て癒されようとか思ったら、現実を受け入れて戦え!って言われちゃうわけですよ。作品が求められる事と、作品のやってる事が乖離してるわけで、そこが賛否の分かれる所かなと思うし、逆に言えばそのギャップが魅力。

 

ヤル時ゃマジ!妙に強い ギャップが魅力って事ですかね?(いやそれまほプリ)

 

元々プリキュアは「戦う女の子」の話ですし、女性が求められるジェンダーロルからの解放っていうのは初代の時点で作品の根っことしてちゃんとあったわけです。

オタクが可愛い女の子に「甘えさせて~癒して~」ってすり寄ったら、「女もプリキュアもお前の都合のいい道具じゃねーよ」って突き返されると。あれ?それって「ヒープリ」の話のまんまじゃねーか!って思いません?おそらくはそこをきちんと意図して作ってある辺りが凄い。

 

いや~プリキュアってやっぱり面白いですね。
という辺りでひとます締めたいと思います。

 

果たしてこの雑文を最後まで読んでくれる人がどれほどいるのか?って気はしますが、もし読んでいただけたのならありがとうございました。共感してくれとは言いませんが、もし何か気付きが得られたのならこれ幸い。

 

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