HIROGARUSKY!PRECURE
シリーズディレクター:小川孝治
シリーズ構成:金月龍之介
プロデュサー:髙橋 麻樹・鷲尾 天
TVアニメ 2023~24 全50話
☆☆☆☆☆
プリキュアTVシリーズ20作目「ひろがるスカイ!プリキュア」、全50話完走。
「ヒープリ」「トロプリ」「デパプリ」が結果的に45話のシリーズになったので、フルに1年間に戻ったのは久し振りだなぁと思うし、決して世の中は平穏な日常を取り戻したとは言えない世界ですけど、私たちは、そしてプリキュアを見ている子供達はこんな世の中、こういう世界を生きていかなければならない中で、プリキュアの価値や意味はどこにあるのか?というのはやっぱり意識してしまいますね。
10周年記念作品だった「ハピネスチャージ」の時も、割と1周した感、次の段階・ネクストステージに進む感がありました。ハピチャ作品内の世界のプリキュア、各国にプリキュアが存在するみたいなのは、それだけ世の中にプリキュアという作品、コンテンツが普及・浸透したという事なんですよ、っていうメタ的な意味もあったんですけど、そこから更に10年。
私が「ひろプリ」が始まる3年前に書いたこの記事
ヒーローとしてのプリキュアとは何か、みたいな事を最初に書いてますけど、後出しじゃなく、ずっと前に私が書いてた事を後のプリキュアがテーマとしてとりあげる事になったのは、あながち私の視点も的外れな物では無かったんだなと思えてちょっとホッとしてます。
それなりにロジカルな視点でいつも書いてるので、理屈的には間違って無いはず、という自負はあるものの、何分賛同者も居ないのでもしかして間違ってる?とか心配になる時も稀にあるので。
でも、そこの記事で書いたように、実質的にはスーパーヒーローでありながら「ヒーローでは無くヒロイン」という言葉を使わなければならなかったプリキュアが、
www.youtube.com20年の時を経て、堂々と「ヒーロー」を名乗れるようになったのは時代の変化ですよね。
因みに「ヒーローガール」っていう言葉、何気に新しい言葉です。勿論、造語とかではないので文献とかを漁れば使われたケースは全くないっていう事は無いでしょうけど、メジャーな所で使われたのって多分2015年の「DCスーパーヒーローガールズ」からだと思われます。
私はアメコミも趣味の一つなので、やっぱりその辺りの時期に、最近はスーパーヒロインって呼ぶんじゃなくて、スーパーヒーローガールって言われるようになってるんですよ的な事を目にして(耳にして)、へぇ~そうなんだと思った記憶があります。
ヒーロー=英雄と呼ばれるのは男だけっておかしくない?というごく普通の感覚ですよね。そしてそれを近年、しかもほんの数年前まで誰も訂正しないのが世の中っていう事ですよね。
80年近い歴史のあるアメコミヒーロー物でもフェミニズムとは並走してきた歴史があって、史上初のスーパーヒロイン(スーパーヒーローガール)の誕生はDCの「ワンダーウーマン」ですし、マーベルだって男は既婚未婚に関わらず「ミスター」で構わないのに、何故女だけ既婚未婚で「ミス」と「ミセス」を使いわけなきゃいけないのか?それって差別だしおかしくないか?という観点からどちらでも使える「ミズ」という敬称を主張したのがマーベル側の「ミズ・マーベル(後のキャプテンマーベル)」だったりします。
そういったジェンダー、フェミニズム文化の歴史みたいなものを、プリキュアは独自の文化圏として20年の歴史で描いているって、物凄く面白い部分じゃないですか?これまで何度も書いてきたけど、世界の文化と比較しえる文脈を持つプリキュアの凄さって私は物凄く特別な事だと思ってるし、意識の低い(ように個人的には思える)日本アニメ文化の中でもプリキュアは特別なケースで面白いものだと思う。
特に言及されては居ないと思うけど、今回のひろプリでヒーローガールという言葉が使われたのは、多分ですけど最近はヒロインじゃなくこういう言葉で表現されてるらしいですよ、みたいなのが耳に入って、そこから「ひろがる」と語感も重なるし、じゃあ改めてヒーローとしてのプリキュアを再定義してみようか?ってなったのでは無いかと思われます。
しかも結果的にですけど、先に触れたとおり「ヒープリ」「トロプリ」「デパプリ」が短縮する形になってしまった3シリーズという枠で考えると、その前の「スタプリ」までが夢や未来への希望を描いていた作風だとすると(最終回に大人姿が見れるのもそこに起因する意図的なもの)以降の3本が今を必死に生きる為のバトロワ時代のサバイブ(或いはアライブでも良いかも)3部作、だったと私はこれまで何度も定義して来ました。
多少強引な解釈ですけどファッション=衣という意味で「トロプリ」、食の「デパプリ」、環境問題という意味での住が「ヒープリ」で、衣食住のプリキュア。生活に根差したテーマ。生活とは「生存して活動すること、生きながらえること」という意味です。
私はアニメ全般に詳しいわけじゃないので、あまり深い事は言えないけど、コロナ禍のおかげで商業的に成り立たなくなったのもあって、確かここ数年でプリキュア以外の女児アニメ全滅したんですよね。実写の「ガールズ×戦士」シリーズも終わったし。(プリティーシリーズは今春に早速復活とかするみたいだけど、一時期TVでの放送が一度終わってしまったのは事実)
そこをプリキュアは今をサバイブしてきたわけですよ。ひろプリのOP歌詞にもあるけれど、つながるキセキ(奇跡&軌跡)がプリキュアを生き伸びさせたと。
いやサバイブつっても、「デパプリ」が食の大切さとかを描いていたのかと言えばそうじゃなく、シェアする事の大切さだったり、トロプリのメイクだって、生活必需品とかではなく、気持ちを上げるのがメイクなんだっていう、ちょっと捻りの効いた描き方こそがプリキュアらしい魅力なわけですが。
でもってそんな時代が一段落済んだ、ネクストステージが「ひろプリ」という作品。そこで「ヒーロー」という原点回帰を選んだわけですが、プリキュアが「ヒロイン」という肩書きから「ヒーロー」と言える時代に変わった事と同じように、時代の変化によるアップデートを試みたのでしょう。
今回は所謂プリキュアのお約束、シリーズを重ねてきた事によって生まれた蓄積を一度見直すという作業。1~4話にかけて4人のプリキュアが変身。1クール目の終わりにアイテム出現。2クール目の終わりに追加戦士、3クール目にかけてパワーアップと最終大型アイテム。みたいなのを今回はとりあえず無視して良いよと。
おかげで、食玩でマジェスティが出て無いとか、商品展開で割を食ってしまった部分もあったりするのですが、おそらくですが商業展開・成績に関しては今年は20周年イヤーでのメモリアル商売で補うので、TVシリーズはそこまで成績気にしなくて良いよ、みたいな感じだったのかなぁと。
かと言って「ディケイド」「ゴーカイジャー」みたいなTVで1年通してメモリアル商法やるよっていう路線に行かなかったのは何気に英断。
オールスターは映画やイベントに集中させて、TV本編ではむしろセンターを人間界じゃない異世界出身の青にする、男の子なおかつマスコットキャラのプリキュア、成人プリキュアとか、まさに時代の変化を見据えた別ベクトルで冒険するというか、ある意味今後の土台作り、地固め的な部分もあったのでしょうか。厳しい状況の中でも、目先の商売に走らない辺りがプリキュアの戦略的センスだなと思えてそこも面白いです。
でもってその映画の「オールスターズF」は「プリキュアとは何か?」がテーマでした。と言っても映画の方の田中監督、TVシリーズの初監督作品「ゴープリ」で実はそれもうやってるんですよね。「プリキュアとは何か」「プリンセスとは何か」「ヒーローとは何か」って実は全て同義語です。だから監督本人の中での自分の答えを先に描いてはいるけど、他のシリーズには他の考え方もあるわけで、「映画F」に関しては、そういった他者の視点も組み込んだ上での再定義が行われた作品でした。
映画でのキュアシュプリームは「最強の力」こそがプリキュアではないのかと考えますが、この部分に貸してはTVシリーズ「ひろプリ」とも重なる部分ですよね。ひろプリ最終決戦、アンダーグエネルギーの化身であるスキアヘッド(ダークヘッド、ダイジャーグ)がラスボスポジションでした。彼もシュプリームと同じで「力こそが全て」という考え方。
この「力こそが正義」っていうパターン。ありとあらゆるフィクションで使われてきて、1ミリも新しさとかは無い定番のよくあるやつって感じですけど、プリキュアシリーズにおける力の否定という文脈は割と特別な物です。これを理解しているのとしていないのでは印象も変わってくると思うのでそこは解説しておきましょう。
前述の通りプリキュアはフェミニズム思想っていうのが初代の時点から根本にあります。そこを大々的なテーマとして意図的に掲げてきたわけではないのですが、当時の初代のムック本とかインタビューとか見てても、男性優位みたいに思える描写はなるべく避けたいよね的な気の使い方はものすごく当時なりに考えてやっている事が読みとれます。作ってる人達本人が、当時はフェミニズムなんて言葉使って無かったよとか言うけれど、作品を誠実なものにしたいが故に、こういう描写は嫌だよね的な事を一つ一つ丁寧に向き合って作ってる。
そういう観点から、「世の中は力が全て、力なきものは踏みにじられるのが真理」みたいなものにNOを突きつけるのがプリキュアの基本になってる。物理的な力、或いは権力的な力、そういうものを振りかざされた時に、女性はどうしても不利になってしまう場合が多いわけです。
だからこそ力を振りかざしてくる存在にはNOを表明して、例え力が無くても私たちはそれに従ったりしないし、それに屈する事は無いという気持ちを表明するのがプリキュアの基本みたいなものになっている。
プリキュア初代の最終決戦、圧倒的な力の差をみせつけられ、なすすべもなく敗れてしまう二人。あ~あ負けちゃった、もう全部終わりだねって嘆くブラック。それに対して、ホワイトは気付く、世界の全てを奪われてしまったけれど、私の心の中の気持ちだけは誰も奪えない、私の心の宇宙は誰からも支配されない自由なんだとそこで初めて認識して、それが反撃の糸口となる。
心がある限り、どんな力による支配からも自分は束縛されないんだ、というのがプリキュアの最初からの主張。力の否定はこういう考えの上で連なっていったものです。だからプリキュアは相手を打ちのめして力で上回ることでの勝利(或いはそれに伴う優越感とか)ではなく、「勝つ事」ではない「負けない心」を抱えているのがプリキュアという存在で歴代の歌詞とかでも「負けない心」とかが多用されてるのでそこを知ってると凄く熱い部分。
ジャニーズ事務所とかもそう、吉本興業とかもそう。力がある奴は何をやっても許されるんだっていう世の中だったわけじゃないですか。現在の与党である自民党だって、「弱肉強食こそがこの世の中の真理。弱い奴は努力を怠っただらしない人間だから全て自己責任。そういう人間は生きる価値が無い。文句が言いたいなら相手をねじ伏せられる力を身につけてから言いなさい」っていう価値感。
私はそんな世の中嫌だなって思う。だから、力での支配なんかに絶対に屈しない!っていう主張をするのがプリキュアで、そこが好きです。
でもってちょっと面白い記事があったのですが
「はい論破」みたいな事が持て囃される事に疑問を呈していて、そういうのとは違うヒーロー像を描きたいというのがあったようです。
はたしてプリキュアのメインターゲットが「ひろゆき」とかああいうのをヒーロー視するものなのか?とメチャメチャ疑問ですけど、以前どこかで親が子供に何か言っても、子供が「それあなたの感想ですよね」とか言って親を黙らせるケースが多くなってるらしい、みたいなニュース記事をどこかで読んだ記憶がある事を思い出しました。まあ子どもの人気職業でユーチューバーとかもあるし、youtube全盛期ならではなんですかねぇ。
ディベートってロジカルな考え方の訓練にもなるし個人的には凄く良い文化だと思うんですけど、ショー的な奴だとロジック以上に瞬間的な判断力が重要なものだったりするので(ひろゆきなんてその場で上手くやってるのが凄いのであって、ゆっくりあとから動画でロジックを検証すると、そこで戦って無いのが結構簡単に分析できますよね)論破文化はいかにロジカルな思考を構築できるかよりも「相手を打ち負かす、勝つためのテクニック」が重視されてるように私は感じます。
勝つ事が目的、相手を打ち負かす事が目的、それによって自分の優位性を誇示するって言っちゃうとさ、そりゃあプリキュアがこれまで描いてきたものとは対極だよね、と思う。
実は昔からプリキュア説教、プリキュア構文みたいなのは揶揄されてきた歴史っていうのも何気にあって、よく例に出されるのが敵が「騙される方が悪いんだよ。弱いからそうなるんだ」みたいな主張に対してプリキュアは「騙す方が悪いに決まってるじゃない!」って無根拠な返しをする。それが正義の押しつけだって揶揄される半面、それを根拠なんか考えずに言いきっちゃうのが正しい子供番組の在り方で良いんじゃないかというような言われ方をされてきた。
子どもは大人と比べて経験もそうだし語彙力だってそんなにありません。力では親に敵うはずもない。でもそんな子どもが「それあなたの感想ですよね」と言って親を黙らせる、親に一矢報いたように感じさせる魔法の言葉。
論破って多分そんな感じなんだと思うんですけど、男の子が力を持つ大人に対抗する手段として変身ベルトや巨大ロボを欲しがるように、女の子が魔法の変身パクトやステッキをほしがるように、大人に拮抗しえる(と錯覚させる)論破というマジックを与えたくない、という思考は多分そんな感じでしょうか?
勝つための力がそんなアンダーグエナジーだとすると、ラス前の話でアンダーグエナジーにとりこまれてダークスカイ化したのは、「オールスターズF」と同じように黒と白のプリキュアという初代オマージュ要素もありつつ、相手を打ち負かせる力へのあこがれは誰の心にも芽生えるものという風にも思えるし、そこに染まってしまった子供という部分もあったのかなと。
で、そこに対抗しえるのが、スカイを信じるプリズムの光というのがましろん好きな私的にも嬉しいのですけど、力を求めるアンダーグ帝国に拮抗しえるプリキュアのロジック、いくつか提示されたソラちゃんの思い描くヒーロー像の中で私が好きなのは「弱い存在に手を刺しのべるのがヒーロー」(泣いてる子をほっておけない!はピーチとイースにも通じるものがありましたね)と「立ち止まるな、ヒーローガール」の二つの部分でしょうか。後者は要するに思考停止するなって事ですよね。
これが答えだ、なんていう安易な正解は無いから、常に考え続けろと。それはプリキュア20周年だけど、全ての物を根本から見なおして、これは本当に必要なのか?何故こうなっているのか?これを変えるとどうなるのか?プリキュアならこうだっていう安易な考えに染まるなっていう企画にも表れてるし、そこは「ひろプリ」としての他には無い個性になったように思います。集大成的なまとめではなく、この先もこの景色が続いていくようにと、空は無限にひろがっていくんだからと、再び未来を見据えたプリキュアになってたんじゃないかなぁ?
唯一、これはいかがなものかと思ったのは、カイゼリンに対してスキアヘッドが「あれは嘘だ」と言い放ったのが流石に作劇としては反則に感じました。言葉のみならともかく、キュアノーブルがカイザーアンダーグを殺めるシーンとか絵として描いちゃってるし、視聴者を騙すのはいかがなものかと。もしかして悪い奴は嘘つきなんだっていうヘイト的なものを強調したかったのかもしれませんが、あの描き方だけはちょっと印象悪かったです。
キャラとしては増刊号の感想にも書いたのですが、私はましろん押し。
勿論!全員好きですよ。ひろプリは全員好きになれるキャラでした。でも特異な個性や属性を持ってるプリキュアばかりの中で、唯一の普通っぽいましろんが、みんなみたいに私は特別じゃないけど、それでもみんなの隣に私も立ちたい。それがやがて自信にもなって誇りにもなる。
「プリズム」は反射する光です。それ単体で輝きを放つものでもない。でも何色にだって染まれるし(それは白というメインカラーも同じ)その反射がまた周りに輝きを届ける。そんな構図が凄く良かった。
ソラちゃん、どこまでもまっすぐだった。でも、それがゆえに心が折れてしまった事もあった。一人じゃない、自分一人が全てを背負わなくても良いんだよ、と気付いた時にまた立ちあがる事が出来た。倒れたってまた立ちあがればいい。立ち止まるな、ヒーローガール、自分の求めるヒーローを目指してどこまでも。
ツバサくん、他の人と違ったっていい、自分が出来る事を、自分にしか出来ない事を、知識と勇気をもって羽ばたけばそれはきっと誇りになる。シリーズ的にやっぱり特異な存在ではあるんだろうけど、立派にその役割を務めてくれたなと思います。
あげはさん、多分子供達にとってこうあってほしいという大人像だった。本人はまだまだって謙遜するけれど、最強の保育士の片鱗はもう十分すぎるくらい。大人だって悩みや不安は当たり前にあるけれど、お姉さんとしてカッコつけさせてよ!っていう部分はグッと来ます。
エルちゃん、使命を受け継ぎ、みんなを巻き込んじゃったかなってきっと少し思ってるだろうけど、一人じゃない、みんなが居るからそれは特別な絆、チームになった。みんなを繋いでくれてありがとうって言いたい。
とりあえずはこんな感じでしょうか。
準備する時間が無かったので、最終回見終わってから一気に書いたので、支離滅裂な部分もあるでしょうけど、そこは勢いと熱で勘弁して下さい。
勿論!まだまだひろプリは終わりません。
次は「感謝祭」楽しみにしてます!
※ちょっと追記
コメントをいただいて物凄く重要なポイントに気付きました。
他4人と比べて特殊な属性を持たないましろん、TVを観ている小さい女の子達の投影だったんだと、今更気付きました。
ましろが異世界から来たソラちゃん=キュアスカイと出会う。子供達がプリキュアという作品、プリキュアという概念に初めて出会って、カッコいいな、可愛いな、憧れるなって気持ちを抱く。
そしたらね、今度はあなたの番だよと。あなたもプリキュアになれるんだよとプリキュアと友達になって、その一員になって一緒に戦うの。
きっとTVの前でプリキュアを応援してる子供達は、衣装だったリ玩具だったりで自分もプリキュアになりきって、一緒になって戦ってる気持ちになってるんじゃないかなぁ?
最終回を迎えて、TVのひろプリは今日で終わりですよってなって、みんなとお別れなんかしたくないよ!って悲しくなっちゃうけど、じゃあ明日もまた会おうね、会いたくなった時にはいつでも会えるから!って言ってくれるんですよ?
(最後のあっさり再会は初代のシャイニールミナスオマージュもありそうですが)
ひろプリってそういう話だったんだ。と一気にストンと腑に落ちた。
プリキュアを見ている子供達の、プリキュア体験みたいな所まで意識して話に組み込む。何これ超エモくない?
ボーイ・ミーツ・ガール的な言い方をするなら、ガール・ミーツ・プリキュア。
プリキュアに出会って、プリキュアに憧れて、プリキュアになった女の子の物語。
こういうメタ構造を持つプリキュア作品が過去にもありました。
「オールスターズNS」の坂上あゆみちゃんです。
キュアエコーとはそういう存在でした。
TVで見るプリキュアに憧れる女の子のお話。
「NS1」は別の人ですが、「NS2」「NS3」はひろプリの監督の小川さんです。NS1も監督という立場では無いけど関わってはいて、そこでエコーに思い入れがあったから、次は自由に作って良いよと言われた時にNSを3部作にした事は過去のインタビューとかでも語られてます。
凄い。ちゃんと文脈が繋がった。
そう!キュアプリズムとは、もう一人のキュアエコーとも言えるわけです。
「エコー」とはやまびことか、こだま、反響とかの意味。
NS1では自分の声を届ける為に変身したから「想いよ届け!キュアエコー!」という名前になったんだと思わせてくれました。でも恐らくはそれだけでなく、ダブルミーニング的に「反響する存在」でもあったんじゃないかと。
作り手が視聴者に作品を届ける。それを受け取った視聴者をキャラクターに置き換えて作品内に登場させて、メタ的な意味合いを持たせる。
そして「プリズム」もまた光の「反射」や「分散」のメカニズムの事を指す。ただの反射じゃ無く、分散というのが「ひろがる感」があって面白いです。
私はメタ構造というのが大好物でしてね。作品内だけに留まらず、見ている視聴者まで意識してそれも含めた物語になっているとか、これはちょっと凄い感じなんじゃないかと。こうなるともはやひろプリは100点を越えて1億点です。視点を変えればどこまでも世界はひろがっていく!それを改めて教えてくれたのがひろプリですから。
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