僕はこんな事を考えている ~curezの日記~

見たもの読んだものなどの簡単な記録と感想のチラシ裏系ブログ

ホークアイ(MCUその31)

www.youtube.com原題:Hawkeye
監督:リース・トーマス
原作:MARVEL COMICS
配信ドラマ 2021年 全6話
☆☆☆☆

 

ディズニープラス配信のMCUドラマシリーズ5作目。
悲しい事に「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」が本国では公開されたものの、日本では来年の年明け公開という酷い仕打ちがありましたので、日本では2021年MCU作品はこれで見納めという形です。

 

アベンジャーズオリジナルメンバーでありながら、これまで唯一単独作品が作られてこなかったホークアイでしたが、これでようやく!でありつつも、新世代ヒーローのケイト・ビショップとのバディ物という事で、ホークアイもこれで引退して、ケイトへホークアイのコードネームを継がせて終了・・・かと思いきや!という感じです。

 

シーズン2へ続く、みたいな感じでは無く、あくまで今回のみのミニシリーズという扱いのようですが、演じたジェレミー・レナーは再びホークアイを演じる機会があるなら是非、と言ってるようですので、ファンとしては嬉しい所です。原作の方でも、ホークアイ2世とかじゃなく、二人とも同じコードネームのホークアイをそのまま使ってたりしますので、そこは十分に可能性がありそうです。

 

ネタバレありきでの感想ですので、その点はご注意を。

 

という事で、今回のホークアイでしたが、素直にとっても面白かった。私はMCUを高く評価してる理由は、エンタメ作品でありながら、社会性や時代性をきちんと取り入れているっていう部分こそを一番評価してるのですが、その点に関してはやや弱かったかなという印象。ケイトのキャラクター性とかは勿論凄く現代的ですが、ドラマシリーズの方だと「ファルコン&ウィンターソルジャー」が映画の方と同じく、凄く社会性の強いドラマで私は凄く好きですが、他のドラマシリーズはそこまでテーマ性重視には作って無い印象。

 

キャラクターとかで引っ張る感じですかね。私も別にそこ興味無いやって事は無いですので、それはそれで全然楽しめてますし、今回の「ホークアイ」はよりそこを重視した作りな印象も受けました。クリントとケイトのみならず、ヴィラン側も含めて、凄くどのキャラも魅力的なんですよね。これはずっと見てたいな、と思わせてくれました。

 

公式発表されてるものだと、今後は今回から初登場のマヤ・ロペスが主人公の「エコー」がありますので、彼女のドラマはそちらの方で描かれ、恐らくは今回のドラマからのある程度の流れみたいなものも引き継ぐのかと思われます。そっちも楽しみです。

 

せっかくなのでじゃあそのマヤ・ロペスから語っていくと、彼女は原作だと一時期「ローニン」の名前を引き継いで、その後「エコー」になるキャラです。今回、義足である事がクローズアップされてましたが、あれ?聴覚障害なのは原作も同じだけど、原作のエコーって義足だったっけ?とか思ってたら、実際に彼女を演じた役者さんが、本当に聴覚障害者で義足だった、という事のようです。マーベルスタジオがエコー役の役者を探している時に、彼女をみつけて、演技経験も無かった彼女を抜擢したという、なかなか凄い話。

 

マーベルとは関係無い話ですけど、「RUN」という車椅子の女の子が主人公の映画でも、健常者が障害者の役を演じるのではなく、リアルな障害者に演技をやってもらうという手法をとってました。
「ピーナッツバターファルコン」も実際に発達障害の人にその役を演じてもらうとかありましたし、過去にも前例が無いって事は無いんでしょうけど、別に障害者だからって俳優をやってはいけない理由なんて別に無いよね、という考え方が、いかにも現代的だなぁという感じです。

 

キングピンとの関係性が描かれてましたが、そこは原作を生かした設定で、その周辺としてデアデビルなんかとも縁のあるキャラですので、次の「エコー」ではデアデビルの復活に期待したい所です。

 

また多様性とか言い出すの?っていう人も中には居るかもしれませんが、ホークアイが補聴器つけてたりするのも実は原作からある設定なので、そこに絡めてのヴィランとしての起用かなと思われますので、多様性はテーマとして当然考えてる部分でしょうけど(フェイズ4の他の作品もそこを今は描いてきてますしね)別に原作に無い物を無理矢理詰め込んだ、とかでは無いはずです。そういうとこはマーベルスタジオの上手さですよね。

 

そして先ほど触れたキングピン。おいおいマジか。


ネットフリックス版ドラマ「デアデビル」と同じヴィンセント・ドノフリオキューブリックの「フルメタルジャケット」のほほ笑みデブで有名な人)の起用という、どよめき物件です。

 

ネットフリックス版のマーベルドラマは、当初はMCUのスピンオフという触れ込みでスタートしたものの、マーベルスタジオで作ってるわけでは無かったので、特に映画の方とクロスするわけでもなく、単体としての評価はともかく、あまり「MCU作品」という扱いはされてこなかった。

 

私は「デアデビル」のS1と2、「ジェシカジョーンズ」のS1くらいしか見て無いんですけど、面白い事は面白い。けどドラマ長くて見るの大変だし、MCUには影響しないからなぁという感じでしたが、今後はそこも生きてくるという所でしょうか。公式的には、同じ俳優に同じ役を演じてもらうけど、過去作品はあくまで派生作品でMCUのストーリーラインとは別物、というようなコメントも出ているようです。

 

まあでも同じ話をリブートしてMCUでも作り直すって感じでも無さそうですし、まさしくスピンオフドラマ的な物と考えても良さそう。

となると、え?じゃあ過去のドラマシリーズも全部見なきゃならなくなるの?とついつい日本人的には思っちゃうんですけど、そこはアメコミ文化ですので、興味があって追えるものだけでも大丈夫だよ、で良いと思われます。アメコミの一つのユニバース全部をきちんと読んでる人なんて、相当の濃いマニアの中ですらほとんど居ませんから。多少の矛盾があってもそこは許容してね、ぐらいの緩さでもおそらくは大丈夫でしょう。

 

そしてMCU公式の流れで言えばエレーナです。「ブラックウィドウ」から登場したまた別のウィドウ。いやね、彼女は今回も最高でした。今回の「ホークアイ」の中で私の中の一番好きになれたシーンはケイトとエレーナの二人の関係です。プロの暗殺者であるエレーナにとってはケイトなんてひよっこでしかないし、目的のクリントの味方をするならあんたも敵だよって認識なんでしょうけど、そこに必死にくらいつくケイトが可愛いんですよね。別にあんたの事嫌いでも無いし殺しはしないから、仕事の邪魔すんなっつーの!な感じが物凄く微笑ましくて好きでした。

 

ブラックウィドウ」の方でもナターシャとはまた違う魅力があって大好きでしたが、今回もホンっとエレーナ良かった。まだまだ今後も見てたいキャラの筆頭です。

 

そしてそのクリント。ナターシャへの思いや自分の過去との向き合い方。そしてケイトとのコンビもね、二人ともボロボロの傷だらけになるのが良いです。原作のマット・フラクション版「ホークアイ」でもそうでしたけど、絆創膏だらけなんですよね、この二人。でもそこが重要。ヒーローとは空を飛べたり手からビームを出す人だけがなれるものじゃない。やるべき事をやろうとする人の事だっていうような、まさしくそれが「ホークアイ」というキャラクターの魅力ですよ。

 

そこをちゃんと描いてくれたのはね、ホントに嬉しい。跳ねっ返りのケイト、そして常人でありながら自分のやるべき事を黙々とやろうとするクリント。いや良かった。

 

仲間になってくれるコスプレ軍団とかも、凄くいとおしいし、原作では「ソーズマン」なデュバル。そしてカジとか、ケイトのお母さんもね、それはそれでなんか凄く愛おしい。トラックスーツマフィアもケイトのアドバイスを聞く人とか面白かったし、テーマ性うんぬんよりも、ちゃんと今の現代的な感覚で、シリアスかつ楽しいホリーデイスペシャル的な感じの作品を作る、っていうのが良かったです。

 

新世代ヒーローのケイトと言えばの「ヤングアベンジャーズ」もあるけれど、同時に「ウエストコーストアベンジャーズ」もまたあるわけで、これどっちの路線も見てみたいなと思わせてくれる魅力がありました。

 

一応今回はマット・フラクション版がベースになってる感じではありますが(確かクレジットにも名前が載ってたような気が)、いくつか要素を拾うくらいで、基本的に話はまったくの別物。いやでもそれが良いんですよMCUは。原作から色々な要素を抽出しつつ、コミックはコミック、映画は映画、ドラマはドラマとしてちゃんとそこで面白い物を作ってやろうっていう感じが凄く良い。原作読んでるからこの話はもう見たよ、ってならないのがまた良いんですよね。要所要所で、あ!これ原作のあの部分を生かしてる!くらいなのが凄く心地良い。

 


とにかく楽しい作品でした。

という所で次はようやくスパイダーマンです。ネタバレに注意しつつ楽しみに待ちます。

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超訳「SDGs前文」feat.∀ガンダム

まずはこの辺の記事を読んで下され

withnews.jp

最近やたらと目にする事が多くなったSDGsという言葉。
SDガンダムシリーズじゃないぞ。

 

継続可能な社会を作っていこう的なあれですね。私もそういう理念を常に念頭に置いて日頃から意識しているとかそういうのは全然無いのですが、すげぇガンダムっぽいぞ、という所に着目して、実際にそこをコラボさせるという面白い企画のようです。

www.youtube.com

おおおお!ディアナ様だ。

つってもそこ、∀ガンダム見て無いと少しわかりづらいのですが、元ネタになってるのがこちらです。

 

www.nicovideo.jp

 

 

丁度ディアナ様とキエル嬢が入れ換わってる時で、月の勢力であるムーンレイス(ディアナカウンター)が地球で建国宣言をする時に、ディアナ様の変わりに地球人であるキエル・ハイムが予定されていた宣誓で無く、自分の言葉で演説をしちゃうんですよね。入れ換わりは極一部の人しか知らなくて、表向きにはディアナ様の言葉という形になってるのですが、ディアナ様本人もそこに感心するっていうようなシーンです。

 

この辺の複雑である意味わかりにくい部分はまさしく富野の真骨頂という感じですが、まあ今回は別に「∀ガンダム」語りをしたいわけではないのでおいとくとして、この、本来ガンダムとは関係無いものだけど、凄いガンダムっぽいな、という感覚が私は凄く面白味を感じます。

 

環境論としてのガンダムとかは、まあガンダムに限らずですけど、90年代くらいのトレンドっていう印象が私の中ではあったりします。「逆襲のシャア」「閃光のハサウェイ」それと同時期の「ガイア・ギア」もそうでしたし、自然こそが最も大切なもので、人間こそが地球にとっては害悪な存在なんだ、的なやつ、あの時代はガンダムに限らず凄く多かった気がします。

 

「地球に住む人達は自分達の事しか考えていない!だから抹殺すると宣言した!」
まで行くのがいかにもガンダムな感じではありますけど、ちょっと前の環境活動家のグレタちゃんとシャアの言葉が似てるとかそういうのもありましたよね。

 

∀ガンダム」だってあなた20年前の作品ですよ。20年前はもう私はバリバリの富野信者でしたので、∀ガンダム全肯定派でした。洗濯出動回とか私は大好きですし、私は今でもロラン君の「自分を捨てられる者こそっ!」っていう言葉に動かされてたりします。自分の都合だけを優先するんじゃなくて、時に自分のエゴを捨ててまで大局的に物事を判断して動けるような人こそが本当の価値がある人なんだよって意味です。

ってイカイカン、ほっとくとつい∀語りが止まらなくなる。

 

なんというか、あれ?これちょっとガンダムっぽいな、なんて思うのは当たり前の事で、それなりの作品はちゃんとそう言う物が含まれてるものです。時代性とか社会性とかね。

 

私が考えた物では無いですけど、作品のメタ要素まで含めた読みとり方ってテンプレートというか、基本となるものが昔からあるので、その内ブログでも紹介しようと思ってますが、作品内のみで完結してる要素と、メタフィクションとして読みとる要素では、後者の方が圧倒的に広いし面白いんです。

 

富野が、20年30年持つ作品を作るって常に言ってますが、「閃光のハサウェイ」にせよ今回クローズアップされた「∀ガンダム」にせよ、ようやく追いついたか、っていう感じがして面白いし、「Gレコ」だって、今は微妙な作品とされてますけど、それくらいの密度は絶対あるわけで、例えば今自分が好きな作品は、20年後30年後にどういった価値や意味を持つのかっていうのを考えるのは決して悪くないかなと。

 

流行りものなんて一過性だから浅くてダメなんだよ、とか言いたいんじゃないんです。その中にある時代性、社会性、あるいは不変性みたいなものを探っていくと、より違う物が見えてきたりするものなので、そこって面白いよね、という事を言いたいのです。

 

そこの面白さを教えてくれたのは私にとってはやっぱり富野だなぁと。こうやって本編の方のディアナ様演説シーンを見返して見ても、あれ、演説だけなんじゃないんですよね。それに対する反応もキャラクターの掘り下げになってる辺りが面白い。キエル、ディアナ、ロラン、グエン卿、リリ嬢、ソシエ、ミラン執政官、ハリー、ポゥの感情がそこに渦巻いてるという(ジョゼフとシドじいさんは見てるだけっぽかったけど)1シーンで10人くらいの感情とか反応、思惑みたいなものを読みとる作りになってるのが改めて富野作品っぽくて最高に面白い。

ってまた脱線した。

こういう現実社会とフィクションのリンクってホントに面白いし、個人的にとても好きなのですが、昔から割と日本だとフィクションに現実を持ちこむのを嫌う層ってのが割と居て(作り手側にもそういう事を言う人が結構居るのよね)そこはちょっと複雑な気持ちにもなるのですが、個人的にはこういうのはどんどんやってほしいです。キャラ崩壊させてひげそりのCMに使うとかよりずっといいです。

∀ガンダム  オリジナル・サウンドトラック 2 ディアナ&キエル

岸辺露伴は動かない

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監督・脚本:加藤敏幸
原作:荒木飛呂彦
OVA 全4話 2017-20
☆☆☆★

 

昨年末に放送された全3話の実写ドラマから、今年は続きで4~6話が年末に放送予定。それだけでも楽しみなのですが、なんとOVAとして制作されたアニメ4話分もNHKで放送という、非常にありがたい感じになってます。

 

いやNHK良いですね。最近はやたらとアニメに力を入れてる印象もありますし、他にも「トクサツガガガ」とか「ガンディーン」とか、あったので、ホントにありがたい。

 

ジョジョのアニメシリーズは5部までは全部見てますが、ネトフリは入って無いので岸辺露伴の方はまだ見て無かった。
「懺悔室」「六壁坂」「富豪村」「ザ・ラン」の4エピソードをアニメ化。

 

原作漫画は2巻とも読んでたはずですが、結構前なので記憶が曖昧。むしろ「富豪村」とかは1年前の実写ドラマがまだ記憶に残ってるので、そことの比較みたいな感じで見れたかな?

 

アニメの方はおそらくなるべく原作に忠実にっていう感じで、アレンジ要素は少ないと思われますが、個人的にはアレンジとか改変とかは大いにしてほしい派。媒体が違うんだから、同じで良いはずないじゃん!って思う方ですけど、世間的には多分少数派なんですよね。漫画と映像では見せ方が違うんだから、その媒体に合った物にアレンジするの当たり前だと思うんだけど、なんでそれがわからない人が多いんだろう?不思議です。

 

今回のエピソードの中では「懺悔室」と「六壁坂」が面白かったかな。アニメとしてではなく、元々の話からなんですけど、ストーリーの中でヘブンズドアーでその人の中身を読むくらいならいいんですけど、書き込みして行動を制限するって実はそんなに好きじゃないんですよね。

 

ジョジョ本編の中なら良かったんだけど、オムニバス短編の中だと、敵がスタンド使いとかじゃないので、え~それちょっとずるくない?って思えてしまうのが要因。

 

「懺悔室」って原作でも一番最初に描かれたエピソードですけど、露伴はホントに聴き役なだけで何もしないんですよね。だから「岸辺露伴は『動かない』」っていうタイトルなんだっていう事を荒木は言ってたような気がします。

 

それでも、働かざる者食うべからず、みたいな哲学とかそれが結果的に恨みに繋がっちゃうとか、ポップコーンに火をつけるとかの荒木らしい意外な展開もあれば、オチもちゃんと用意されてるという、凄く考えられている一本でした。


とまあ最初は読み切り短編だったものが、シリーズ化するにあたって、逆にもっと自由な発想で良いんじゃないの?その方が岸辺露伴っぽいし、みたいになっていったのかなぁと。

 

「ザ・ラン」とか結構酷い終わり方な気もするんですけど、そこはね、荒木先生ですから、キングを始めとしたミステリーホラー小説とかも沢山読んでるし、ホラー映画の愛好者でB級物まで含めて大好きな人ですので、え?こんな終わり方でいいの?みたいなものも多分沢山知ってます。

丁寧なオチとか伏線回収とかにあんまりこだわらないのは、どう考えてもそういうのの影響ですよね。

 

多分、荒木先生もそういうの見て、「え?こんなんでいいの?」とは思うはずなんです。でも奇妙で惹きつけられるものはあったし、面白かったからこれでいいのだ!っていう考え方をしてるはず。だからそれが自分の作品にも出ちゃってる、っていう事だと思います。

 

漫画の本質はサスペンスだって言う人ですので、そこが面白ければOK。全部の要素を上手く纏めるみたいな、綺麗にカチっとパズルのピースが上手く収まるみたいなのにはあんまり興味が無いはず。逆に言えばこのシリーズにもそこを求めてもあんまり意味が無くて、むしろそこが魅力とも言える、って感じでしょうか。

 

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スタン・リー マーベル・ヒーローを創った男

スタン・リー: マーベル・ヒーローを創った男

STAN LEE THE MAN BEHIND MARVEL(2017)
著:ボブ・バチェラー
訳:高木均
刊:草思社 2019年
☆☆☆☆


スタン・リーの伝記書です。
仕事の昼休み休憩中とかにちょこちょこと読み進めていたものの、忙しいと休憩もとれなかったりするので、かれこれ2カ月くらいかかったかも。400ページくらいのそこそこ厚めの本です。

 

マーベル映画への数々のカメオ出演で、アメコミにはそんなに詳しく無い人でも、マーベルの偉い人で毎回出てくるヘンなおじいちゃん、くらいの認識はあったんじゃないでしょうか。たまにではなく、ほぼ毎回出てくるので、今回のスタン・リーの出演はここだった的な記事にもなりますし、2018年に亡くなられた後の公開だった「キャプテンマーベル」の時はオープニングのマーベルロゴのシャカシャカがスタン・リー仕様になってたくらいですしね。

 

ファンタスティック・フォー」「ハルク」「ソー」「アイアンマン」「スパイダーマン」「X-MEN」「デアデビル」「ドクターストレンジ」他モロモロ、幾多のマーベルヒーローの生みの親として知られて居ましたし、アメコミファンとしても、その伝説は私も昔から色々と知ってはいましたが、こういった伝記書の形できちんと読むのは私も初めてです。

 

スーパーヒーロー物がアメコミを席巻する以前からのキャリアの事とかはほとんど知らなかったので、そこは色々と興味深く読めました。

 

特に大二次世界大戦時の従軍期間の事なんか全く知らなかったので、え~っ!こんな風になってたのか、と驚かされます。実際の戦地には派遣されず、最初は通信部に配属されたものの、すぐ特殊部隊へ。元から出版社での経験があった事を見込まれ、広報とか宣伝とかそっち方面の部署に回され、ずっとそこの仕事をしていたようです。

数々のヒーローを生みだして、作家としての手腕を発揮する前の段階ですが、やっぱり晩年もマーベル映画の広告塔みたいな役割をしてたわけですし、なんだか凄くスタン・リーらしいキャリアですよね。

 

そしてそこからのシルバーエイジ期に突入して、その才能が開花していくわけですが、アトラス、タイムリー社からマーベルへ社名が変わって、スタン・リーが創始者的な言われ方をしつつも、あくまでライター件・編集長であって会社の経営者ではない。ここは相当に苦労した様子。

 

そして「ファンタスティック・フォー」と「スパイダーマン」が売れ始めて、業界のトップだったDCの売上を越えるに至るも、そもそもそれはコミック業界というだけの話で、当時はコミックの世間的な地位は低く、いくらその世界で認められたとしても、世間にはいつまでも認められないままなんじゃないか?と常に焦燥感は募らせていた様で、色々な事に挑戦するも、他業界は甘くなく、なかなか上手くは行かない様子が生々しい。

 

仕事の虫で、コミックを作る事は好きだったけども、金銭的な部分や、世間に自分を認めてもらいたいっていう承認欲求が、作風にも出れば、色々な分野に挑戦しまくるという行動にも現れていて、そこは凄く面白い部分だし、変な話、晩年になって死ぬまでそういう人でしたよね。

 

「インフィニティ・ウォー」くらいの時期まででも、歴代の興行成績記録を塗り替えたりはしてましたけど、「エンドゲーム」で本当にマーベルが世界の頂点に立つ所とかは見せてあげたかったなぁと惜しまれます。


まあそんな感じで、コミックファン以上の分野にまでマーベルが拡大したりしましたので、映画くらいでコミックの方はあまり知らないよって人も居るかと思うので、一応そういう人の為に説明しておくと、全てのスーパーヒーローの祖である「スーパーマン」を有し、その対極でもあるダークヒーローである「バットマン」、そして女性ヒーローの「ワンダーウーマン」が居るDCがアメコミの世界では基準点であり絶対的なものとしてあります。

 

その3人は通称トリニティとか呼ばれたりしてるわけですが、そこってやっぱりバランスが良いわけです。ヒーローオブヒーローと呼ぶべき陽のスーパーマンが居れば、陰のヒーローのバットマンが居るから力極端の幅が出せるんですね。そこに女性のスーパーヒーローが居たら、さらに幅が広がると。

マーベルよりも歴史の長いDCですが、トリニティの3人はただ元祖ってだけでなく、作風としても凄くバランスが良い。だからダークな作風のスーパーマンとか映画でやろうとしても、いやそれ違うだろって古参ファンからは言われたりするんです。

 

そんな完璧なDCに対して、マーベルは不完全なヒーローである事を打ち出したんです。スーパーヒーローチームなのに、なんかいつも文句ばっか言いあってるFFだとか(勿論本気の喧嘩みたいなのではないけど)科学オタクのさえない少年がスパイダーマンになって、しかも過ちを犯して後悔するっていう。でもだからこそ読者は自分たちと同じだなって共感したと。

 

スーパーヒーローは特別な存在なんだっていうDCと、スーパーヒーローでも実は自分たちと同じような存在なんだよっていうのを打ち出したマーベル。おおまかに言えばそんな初期の特徴があります。勿論、今はどちらも多種多様なヒーローや価値観を生みだしてきてるので、今となってはユニバースが違うくらいの差しか無かったりはしますけどね。

 

ただ、そこは明らかにスタン・リーの手腕なんですね。DCユニバースの精神的柱がスーパーマンだとすると、マーベルユニバースの精神的柱はキャプテン・アメリカって感じですが、キャップはスタン・リーが生み出したキャラではなかったりします。(戦前からのキャラなので、戦後に「アベンジャーズ」としてキャップを復活させたのはスタンですけども)

 

あと映画で言えば、単純な善と悪の戦いかと思わせておいて、近年のMCUは必ず社会問題とかを作品に入れて来ますよね。私はそれこそがヒーロー映画が次のステップに進んでエンタメの最前線にこれた理由だと思ってる人なのですが、そこもまたスタン・リーの遺伝子なんです。スタンが映画のストーリーに口出してたとかじゃないですよ。コミックにそういう問題を持ち込んだのも、スタン・リーと言う人の作風なんです。

 

コミックがただの気晴らし的な娯楽に留まらず、コミックによって世の中を少しでも変えたい、何かしら良い方向に働きかけるような影響を与えるものにしたいっていうのが積極的に社会問題とかも取り入れるようにしていた作風に繋がってて、それを原作としているMCUもその遺伝子が必然的に組み込まれていると。

 

そこ考えるとね、ああスタン・リーすげぇなって思うのです。勿論、彼はDCヒーローみたいに完璧な聖人とかじゃないですよ。今回の本にも、トラブルメーカーだった部分とか、色々な対立とかちゃんと描かれてます。晩年の仕事の色々と微妙なとことかもね。

 

本の中でもまとめの辺りで書かれてますけど、単純に一脚本家としてこういう名エピソードを残したとか、そんな所に留まらないのがスタン・リーという人の面白さでもある。

 

原書としては2017年に出版されたもので、スタンがまだ御存命の時に出た本っぽいので、そこはちょっと時期的に残念かなと思いきや、日本語訳版は2019年の出版で、解説でアメコミ界隈では重鎮の堺三保さんがスタンが亡くなられた時の事まで含めて補足してくれてるので、スタン・リーを知るまとめ本としてはほぼ完璧です。

 

分量が多く、読むのは割と大変でしたけど、今までおおまかにしか知らなかったスタン・リーをより詳しく知れて、とても楽しい本でした。

魔法つかいプリキュア!オフィシャルコンプリートブック

 

魔法つかいプリキュア! オフィシャルコンプリートブック (Gakken Mook)

刊:学研 Gakken Mook
2017年
☆☆☆☆

 

しばらく間に「ハートキャッチ」関連の記事が続いたのでちょっと時間が経ってしまいましたが、流れ的にまほプリのまとめをやってなかったので再開してこちらも。

 

纏め本として出る学研のオフィシャルコンプリートブックです。「スマイル」以降出ているこちらの本、この充実した内容でこの値段で良いの?もっと値上げしてもいいのに!と毎回思うムック本ですが、今回のまほぷりのみちょっと難ありです。

 

メインキャラ4人(プリキュア+モフルン)のインタビューはこれまで通り載ってるのですが、今回、サブキャラのキャストのページが、一応あるにはあるんですけど、色紙へのコメント的なものになってて、一言+サインだけになっちゃってる。いやいやいやいや!これはメチャメチャ残念な部分です。

 

これまでだと文字量は決まって無かったようで、人によっては割と簡素なコメントのみの人も中には居ましたけど、もうビッシリ細かい字になるくらい長くコメントしてくれる人も多くて、それぞれの自分の担当したキャラや、プリキュアに対する愛情とか物凄く語ってくれてたんですね。そこが無いのがショックでした。

 

確か私これ改善してほしいって同封のハガキ送った気が。幸いな事に、次のプリアラからはこれまで通りのスタイルに戻ってたんですけど、まほプリだけはこの状態なのがとても残念。メインのプリキュアを演じた人達のインタビューは色々な所で読めるけど、敵とかサブキャラとかはそこ読める機会が極端に少ないので、凄く貴重なのです。他の部分はこれまでと変わりないのですが、そこだけ本当に残念でした。

 

といった所で、ここからまとめ的に私の個人的なまほプリの思い入れを語ります。

 

ええ~と、実は「まほプリ」、最初はちょっと苦手でした。いや苦手っていうのも違うのかな?普通にリアルタイムで毎週見てましたし。

 

「スマイル」からプリキュアをきちんと見るようになって、そこからそれ以前のシリーズとかも全部見ました。そんな中で、前作の「Go!プリンセスプリキュア」が、もう死ぬほど面白かったんですね。ヒーロー物として圧倒的に面白いし、その上、私の好きなメタ要素とかも含めたテーマも描かれていて、プリキュアってこんなに凄い作品なのか、というのを改めて感じさせてくれる作品でした。

 

どのシリーズも面白いし、私はプリキュアシリーズ全部好きですけど、「ゴープリ」は飛びぬけてこれはちょっと凄い作品だぞ!?と思わせてくれたんですね。プリキュア、本気ですげーなこれ、こんなに凄い作品を作ってくれるんだから、もうこれは本気で応援していくしかねーな、と「ゴープリ」を最終回まで見て思ったんです。

 

でもってそこからの「まほプリ」に実はちょっと落差を感じてしまった。つまんないって思ったんじゃないんです。主人公のみらいちゃんがね、ものすご~く幼い感じがした。

 

いやそれ当たり前なんです。メインターゲットは小さい子供達なんですから。子供達が共感出来る、或いはあこがれる存在として描くわけですから、そりゃあ子供っぽい方が親近感が湧くだろうし、そこは何も間違って無い。

 

「ゴープリ」が大人の目線で見てもこれ凄い面白いじゃん!と思わせてくれる半面、今冷静に思いかえして見ると、逆に子供達にとってはちょっと魅力が伝わりにくい作品だったかも?とも思う。夢中になって見てたので、案外そこは気付いてなかったりした流れの上での「まほプリ」だったので、あ、なんだか凄く子供っぽいと感じてしまったのです。

 

子供が夢中になる奴を、大の大人が夢中になって見てどうするのよ?
と、ふと我に返ってしまったんですね。

 

そりゃまあ子供が見る奴だからな、それが当り前だろうと。でも自分はプリキュアをこれからも応援し続けるぞ!って決めたばっかりだし、まあ一応追っていくか、みたいな感覚が序盤の方は正直ありました。

 

これね、いくつか理由があるんです。
プリキュアの、特にピンクの主人公キャラって、割とファッションが幼い感じなんですよね。設定上は中学生ですが、なんか小学生が着るような服だよなっていうのはこれまでも度々感じてはいました。いや実際の小学生や中学生の女の子のファッションがどんなものなのか私よく知りませんけれど、ピンクの子って大概パステルカラーっぽい服を着てて、小学生感が強い印象が私の中ではありました。

 

そこは目線とか感覚を小さい子供達に合わせてるんだろうな、と思っていて、ピンク以外の子は割と普通な感じはします。

 

目線という部分で言えば、全部の作品では無いにせよ、所謂「妖精」枠が精神年齢的にはそこより更に幼く設定されている事が多く、それは見ている子供達が、私はこの子よりはお姉さんね、っていう優越感だったり、プリキュアと一緒に自分もこの子達を守ってあげなければ、という感覚を持たせているというのは何のシリーズかは忘れましたがスタッフインタビューで読みました。今回の「まほプリ」で言えばまさしくモフルンがそんな感じですよね。

 

そこ行くとプリキュアは基本的にはあこがれのお姉さん。自分もこうなりたいって思わせる存在なのですが、そこであまり差を作りすぎないように、主人公は中学生という設定でありながら、ちょっと小学生くらいの感じのファッションだったりする。

 

ファッション面で言えば面白いのが、キャラデザインが男性の場合、大概は「ティーン向けのファッション雑誌を見て一生懸命勉強した」みたいな涙ぐましいコメントをしがちなのに対して、女性のキャラデザインの人の場合だと、そこを自然に書いちゃうんですよね。今はこういうトレンドがあるからそれを取り入れてみた、とかそういうコメントの方が多い。その差がちょっと面白かったりします。

 

変身後のプリキュアの姿だと、そもそも現実感はあまり無いデザインなのでそこに差はあんまり感じませんが、変身前の服装や髪型だと、そこに結構な差が出る印象。個人的に男性女性どちらの方が良いとかはありませんが、(どっちも可愛いですしね)私服のファッションとかは女性に任せた方が良い気はします。私服のセンスは男性が考えると、一生懸命考えました!感がちょっと出ちゃってて、あんまり自然な感じではなかったりするので。いや勿論個人の感想ですけど。

 

まほプリのキャラデザインは宮本絵美子さんで女性なので、そこは変じゃ無いはずなのですが、それでもみらいちゃんは中学生にしては幼すぎる印象。

 

実はそこもちゃんと理由があって、「まほプリ」って変身すると頭身が上がる設定なんですね。劇中ではこの設定って正直ほとんど生かされて無くて、勝木さんに正体がバレそうになった時、でもプリキュアは背も高かったしなぁ、みたいな感じになるとこくらいしか無かった気が。多分、普通に見てる人は、その設定に気付かない人も結構居るのではないかと。

 

で、何でまほプリはそんな設定になってるかというと、過去の魔女っ子物(あえて「魔法少女」という言葉は私は使いません。世間的に通じる単語なんですけど、実は定義が曖昧なので私は安易に使わないので)へのオマージュかと思われます。

 

私もそのジャンル全般に詳しいわけでは無いので多少曖昧な部分もありますが、昔の魔女っ子ものは、変身アイテムを使って、大人の姿になって問題を解決するみたいなのが多かった記憶があります。そこは男児向けのロボットアニメで、ロボットに乗る事で大人の力にも拮抗する事が出来る、子供のままで大人の世界にも入る事が出来るっていうのと対になってるんじゃないかと。

 

大人には勝てない悔しさとか、早く一人前に見られたい的なものがかつてのロボット物とか魔女っ子物のバックグラウンドにあったけど、時代は変わって多分今はそういう感覚が薄くなってるので、そういうものがかつての時代よりは廃れつつある、という気はしなくもない。腕時計型とかケータイ、スマホ型の変身アイテム(女の子向けならコンパクトも)が人気なのは、大人が使ってるものを自分も使いたいって言う理由があるとされていますので、全く無くなったわけでも無いとは思うけれど。

 

まあそういう文脈があって、これまではプリキュア魔法少女ではないとされてきた(作り手がそこを否定していたので)中で、初めて魔法をストレートにモチーフとした「まほプリ」ですし、東映アニメーションとしても魔女っ子物は色々と手掛けてきてますので、そこに対するオマージュとして変身すると成長した姿になるっていう設定を取り入れてはいるものの、やっぱり時代が違うのでそこは生かし切れなかった、という所でしょうか。

 

そんな部分もあって、おそらくはその変化を強調する為に変身前のみらいちゃんは、より幼く描かれている・・・はず。この辺はインタビューとかで言ってた部分とかじゃなく、おそらくはそうであろうという私なりの解釈ですけれど。

 

変身後のキュアミラクルとしてのデザインも、特別に大人っぽい感じでは無く基本的には普通に美少女って感じのデザインなので、変身前を極端に幼くする事でギャップをつけるデザインになってる。

 

ルビースタイルがガーターベルトっぽいデザインになってて若干アダルトな要素も無くは無いけど、キャラで言えばむしろマジカルの方がお姉さんタイプですし、そこも多人数チームの中のお姉さんキャラ的な程には上に振って無いので、バランスの上での差別化っていうより、もう単純にみらいちゃん幼い感じだな~ってとこだけやけに印象的でした。

 

まあそんな感じで、序盤はちょっと入りきれない部分がどこかにある状態で見てました。でもそこで思ったんですよ、これは女児向けのシリーズなんだから、それが普通、それが当たり前なんだって。
「俺達が見たいプリキュアはこういうのじゃないんだ!」的な発言をする方が場違いもいいとこなんです。そこの分別はつけられました。
その辺のね、立場や身分の違いはわきまえておかないと、っていうのはプリキュアを見る上での最低限のマナーかと思います。

 

だから私は大人向けのプリキュアやってほしいとかそういうのに対しては確固たる「NO」を突き付けます。勿論、そういう気持ちもわからなくはないけれど、そういうのが見たければ深夜アニメの美少女変身物とかそういうのを見てればいいわけで、プリキュアの名前を使って無いだけで、プリキュアだってシリーズが変われば世界観も設定もキャラデザから何まで全部変わるんですから、深夜アニメを大人向けのプリキュアと思って見てれば済む話。特に「魔法少女」って言われるものは、大人がなんとなくのイメージで想像する曖昧な魔女っ子物の総称から生まれてるような部分もあるので、私はその言葉に良くないイメージ持ってますし(つーか言葉のロジック面での話でジャンル自体は別に嫌いでは無い)そこはそこでいつか「まどマギ」語りでもする時に触れるかもしれません。

 

まほプリに話を戻すと、そういう感じに割り切って、本来の女児向け作品らしさが逆に面白さでもあるんだなというのも見えて来ます。

 

まほプリの世界って、いわゆる「攻撃魔法」みたいなものが存在しない魔法なんですね。そりゃあ過去の魔女っ子物だって炎の魔法とか使わんでしょ?って話ですが、プリキュアは同時にバトルヒロインの系譜も引き継いでるわけです。魔法ではないけれど、過去のシリーズでは必殺技に炎とか水とか氷とか雷とかそういう属性がついてるものはいっぱいありました。そんなプリキュアが魔法を使えるというのなら、普通に炎の魔法とか使いそうじゃないですか。でもそういう事はやらない。

 

まほプリも過去のプリキュアと同じく、パンチやキックとか肉弾戦で戦いますけど、実はこの時期のプリキュア、色々とメタ的な問題を抱えていて、一番大きな部分では、売り上げが低迷してた時期です。11作目「ハピネスチャージ」辺りから売り上げが下降線を辿っていて、12作目「ゴープリ」が最低売り上げだったと。「アイカツ」とか「プリティシリーズ」とか「ディズニープリンセス」とか他の女子向けが大きく伸びてきた時期でもあるし、男児のみならず女児にも人気が波及した「妖怪ウォッチ」なんかの要因もあるのでしょう。

 

この辺、理由は色々あるんでしょうけど、その分析の一つとしてプリキュアの戦闘シーンを怖がる層も一定数居る、という所に東映は囚われました。まほプリは普通に肉弾戦あるんですけど、次の「キラキラプリキュアアラモード」では肉弾戦を封印してしまうという作をとってきます。「女の子だって暴れたい」というコンセプトから始まったプリキュアですから、ここはシリーズの根底に関わるアイデンティティーの問題です。

 

私はプリオタですし、ファンですけど、別に東映の社員でも何でもないので、ヘンな話ですけど、そういう部分も逆に面白いなと思ってしまう部分。

 

確かシリーズ構成の山村さんだったっけかな?何かのインタビューで、子供達がプリキュアごっこをしてるんだけど、そこでパンチやキックで敵を倒すとかじゃなく、「キュアップラパパ!」と変身前の魔法の真似をしていて、そこを見てまほプリは上手く行ったと確信できたみたいな事を言ってました。

 

そこがね、凄く面白いなと。プリキュアだからってバトル部分に力を入れなくても良いし、今作で言えば「魔法つかい」、前作なら「プリンセス」だし、次作なら「お菓子作り(パティスリー)」とか、作品のモチーフやコンセプトを明確に打ち出してきた時期でもあるので、プリキュアは「女の子向けのスーパーヒーロー物」という所からの脱却を図ろうとしている作品でもあって、そこがシリーズとしてのプリキュアの強みだなというのが凄くわかるのもまた面白いポイントです。

 

いや、作る方は凄く大変だろうなって思うんですけど、一番最初に持っていたコンセプトに縛られ続けるんじゃなくて、時代に合わせて変わって行けるものって、やっぱり強いわけです。


十年一昔とは良く言ったもので、10年経てばそりゃ世の中もいくらかは変わります。10年前20年前の価値観にいつまでも縛られてては、それは単純に古い物になっていっちゃうけど、時代に合わせてアップデートして行く事で、その時代にも受け入れられるものにしていくっていうのがプリキュアが長く続いている秘訣でもあります。

 

これまで何度か書いてるはずですけど、プリキュアは初代の時点で、過去に囚われず、前例が無かろうがまずは挑戦してみるっていうコンセプトがあったのが大きい。だったら10年経った今また新しく挑戦してみようっていう土壌があるんですね。


誰か特定の原作者が居るわけでもないし(原作者居るとその人が神になっちゃうので、その人が変わらないと作品も変わらないと言う足枷にもなる)一応のプリキュアの父とされている鷲尾Pも「女の子が自分の足で凛々しく立つ」そのコンセプトさえ失わなければ何を変えても構わないっていうスタンスです。

 

前作の「ゴープリ」ある種極まった感がありました。シリーズの中で最もアニメとしての完成度が高いっていうのも頷ける面白さです。でも、外的要因や世相もあるとは言え、それが子供達の心をガッチリ掴んだかと言えば、売上的には低迷したという結果もまたあったりする。(そこだけで良いか悪いかとかどうこう言うものでは無いですが)

 

ここは変化の節目、過渡期でもあるなら、もっと違うアプローチをしてみようっていう作風がまほプリの特徴でもある。で、そんな中でバトル描写を子供達は怖がって見ない子も居るらしいっていうのに注目して、「まほプリ」「プリアラ」はそこを抑え気味に描いてみようかとはなったものの、ぶっちゃけそこは要因の一つではあったかもしれないけれど、大局的にはそこまで大きくなかったと判断したのか、その次の「HUG」以降は割と今まで通りのバトル描写に戻ります。まあ「HUG」は15周年記念作品と言う事で、初代に再びスポットライトを当てるとかの作風もあったので、その部分に関しては必要な要素だったのですが、そこをきっかけに「一部の子供はプリキュアのバトル描写を怖がって見ない」問題は結局あやふやなままです。何だったんだ、あれ。

 

そんな感じで、新しい物を作ろうというコンセプトがまほプリの良い所で、個人的にはその「新しさ」の部分じゃ無く、「色々頑張って工夫して考えてますよ」という部分が私は好きです。うん、最初は「う~ん、ちょっと受け入れにくいな」とか言ってたくせに、そういうとこを見始めたら、もういつのまにか普通にファンですよ。

 

やっぱりね「工夫」が伝わってくるのって私は好きなのです。ただ絵が超絶に綺麗とか、アニメがヌルヌル動くとかもそりゃあ素晴らしい部分ですが、そういう表面的なとこよりも、いかに工夫して作ってあるか、いかに考えて作っているか、っていう部分の方に私は惹かれるんですよね。そこで「なるほどこういう事なのか」っていうのが私はとても好き。

 

例えばおもちゃ。プリキュアの一番売れる玩具は、当たり前っちゃあ当たり前ですが、例年「変身アイテム」です。変身なりきり遊びがしたいのでしょう。その次の売れ筋が、「お世話系の妖精」アイテムなんだそうな。正直、私はプリキュアの妖精ってそんなに重視してませんが、玩具会社にとっては売れ筋の必須要素なのです。

 

じゃあまほプリをそこの視点で見てみると、まほプリの変身アイテムはモフルンです。妖精であるモフルンの胸の所にリンクルストーンをセットして変身する。売れ筋の1位と2位を纏めて売ってしまえ!という、ある意味、そこまで追い詰められてなりふり構わない大勝負に出たと見るべきか、両方の要素を兼ねてたら嬉しいよねっていう工夫なのか、そこはどっちだったのかまでは私は知りません。でもおかげさまで変身モフルンは大ヒットしました。嗚呼、良かったね。確かプリキュア大投票でもサブキャラ枠でモフルン1位とかだった気が。

 

また別の部分では、敵幹部の問題は前作「ゴープリ」」から引き継いでいて、大人が見る分には敵幹部も作品の魅力を支える大きな要素だけど、子供はそこって見て無いし、商品展開もしない部分なので、アニメでそこに力を入れるのはいかがなものか、っていう問題がありました。「ゴープリ」は最初は敵幹部は容赦なく退場という予定でスタートしたものの、結局は描いて行く内にやっぱり愛着が湧いてしまって、ドラマの中核として描く事になってしまった。

 

それを受けての「まほプリ」でしたので、敵幹部の描写はなるべく薄く描くし、感情移入しにくいように瞳の無いデザインになってたりしました。(後半の闇の眷属は瞳ありのデザインだったけど、そっちは人外要素を強めてある)そこもね、大人のファンからしたら、物足りない要素ではあるんです。やっぱりプリキュアの敵幹部って面白い部分だから。

 

でもその分、みらいとリコの日常描写により多くの尺を割けたし、追加戦士枠のフェリーチェを含めて最終プリキュア3人という人数の少なさも相まって、逆にみらいやリコ達の周りの人達の描写も多めに描く事が出来た。かなちゃんとかリズ先生とか補修メイトとか含めてやっぱり私は好きですし。

 

でもってそんな積み重ねだったわけですよ。まほプリって。


そしてこれはもうまほプリ好きな人は全員ここだろって言うとこですけど、例に漏れず私も言います。まほプリと言えばの伝説の49話ですよ。

 

出会いがあれば別れもあるのが必然で、最後はお互いに二つの元の世界に戻っちゃうんだろうな、でもプリキュアだし、ビターな終わり方にはしないはずだよな、とも思ってはいました。

 

でも・・・でもね。

 

いや私リアルタイムで49話見た時、もう全身が震えた。

 

こんな経験したの先にも後にも1回だけです。
ただ涙したとかなんて、私は日常茶飯事です。プリキュア見てて泣いた事なんか何十回もありますし、映画とか漫画とかでも割と私はよく泣く方です。これを書いてる本日も、「ゼンカイジャー」でお父さんを取り戻す話で泣いてしまいました。私はすぐ泣くのです。

 

いやでもさ~、まほプリの49話はホントに全身が震えたの。魂が揺さぶられたとかなんでしょうか?その時しか経験した事の無い事だったので、今も憶えてるんですよね。

 

なんだこれ、やっぱプリキュアすげーぞ、まほプリ最高じゃん!
ってならざるを得ませんよね。

 

吊り橋効果みたいなものもあるのかな?もしかしたら私は大人になったみらいちゃんに恋をしたのかもしれません。いや現実で漫画みたいに電気が走るような感覚を恋とかでした事無いのでそれと同じものなのかはわかりませんけれど、電気が走ったみたいにビリっと来たってもしかしてこういう事?と後から考えたりしましたが、ホントの所はどうかよくわかりません。

 

とにかくさ、大人みらいちゃんなんです。大学生の設定のはずだから18か19くらいなのかな?最初の印象の、みらいちゃん子供っぽくて苦手な感じだな~っていう印象があったから、よりギャップが引き立ったっていうのもあるのでしょう。


「ゴープリ」でもプリキュアが後に大人になった姿とか描かれましたが、後ろ姿とか顔は見えない描き方だったので、プリキュアが大人になった姿をストレートに描かれた初めてのケースだったっていうのもあるかもしれません。(一応ドキプリ映画とかでもちょっとあったけど)

 

なんだろうね?あとは、劇中ではやっぱりどこまでも「子供」っていう感覚で見てるプリキュア達が、自分達と同じ(と言って良いのかはわかりませんが)大人っていう所に居る姿を見た事で、どういう解釈をしたら良いのか脳内がパニックをおこしたっていう可能性も捨てきれません。

 

理由はどうあれ、私はそんな経験からか、大人になったみらいちゃんが死ぬほど好きです。プリキュア姿とは違う視点になるので、番外的な位置かもしれませんけど、プリキュアシリーズで一番好きなのは大人みらいちゃんかも?と思えるくらい凄いインパクトを受けました。

 

そうか、今回は子供向けでいくんだな、っていう序盤から、子供向けって色々と工夫して作ってるもんなんだよな、という感覚で見るようになって、最後の最後に大人がグッと来る部分をちょっとだけ入れてくるという、これはまいった、お見事!と言いたくなるのが私の「まほプリ」の全体の印象です。

 

という事で「まほプリ」は今回で一区切りなので次からは「プリアラ」語りに入ります。ドリームスターズ先に書いちゃったけど、他のはどこまで拾うかは検討中。

 

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ジョジョリオン 21~27(完)

ジョジョリオン(21) (ジャンプコミックス)

ジョジョの奇妙な冒険 part8 ジョジョリオン
Jojo's bizarre adventure,part8 jojolion
著:荒木飛呂彦
刊:集英社 ジャンプ・コミックス 全27巻(2011-21)
☆☆☆☆★

 

という事で「ジョジョリオン」最終巻まで。
つーか21から最後までずっとラスボス戦なのね。

 

まず荒木飛呂彦に一言!
「ファイナルディスティネーション」と「イットフォローズ」に影響受けすぎ!
元々その辺の映画は、本来荒木が持っているテイストに近い作品ですし、別にそのままやってるわけでもないですが、ラスボスの能力「ザ・ワンダー・オブ・U」でやりたい事って要はその辺ですよね。

 

「ファイナル~」も「イットフォローズ」も「死」という概念に一度つきまとわれたらそれからはもう逃れられないっていう話で、そこをジョジョリオンでは『厄災』と言う言葉にしてある。そしてそれが「呪い」でもあると。

 

5部エピローグの「眠れる奴隷」辺りから、もし『運命』というのがあらかじめ決まっているものなのだとしたら、人間の自由意思は?その運命から逃れる術であったり、その運命の中で人はどう生きるべきか?決まっている運命にどんな価値があるのか?みたいな所にやたらと拘るようになってきましたよね。6部も7部もそこをずっとテーマにしてるし。

 

ただそこは少年漫画らしく『黄金の精神』とかで、そういたものは打破できるんだ、あるいはそれでも価値はあるんだ、という描き方をしてきた。が、青年誌に移り、少年漫画的な夢や希望だけではない、「現実は非常である」っていう部分も色濃くなってきた作風が更に追い打ちをかける。

 

ジョジョリオンは1巻の冒頭からあるように「震災後」の話。しかもS市杜王町というのは言わずもがな、宮城県仙台市。荒木の出身地でもあり、実際に震災で津波の大きな被害を受けた場所でもある。実際にその地を見て荒木は思ったのでしょう、厄災こそがこの世の中で最も恐ろしい物であると。ならそこをテーマに描かねばと。

 

仮にもジョジョは「人間賛歌」を謳ってきた作品でもある。いくらその人が血のにじむような努力をしても、ひとたび『厄災』が起きてしまえば、それは全てを無に帰してしまう。この世界には人間の力ではどうにもならない事があるのだと。

 

この考え、社会学では1995年が節目とされていて、それは阪神淡路大震災でもあり地下鉄サリン事件のあった年である事が大きな要因とされていて、いくらそれまで頑張って努力していたとしても、その全てを無駄なものにしてしまうのがこの世界なんだ、っていう認識が一気に増えたとされている。

これ、漫画とかでも「努力して何かを得る」とかよりも、「自分には特別な才能があるんだ」っていう方向に段々と路線変更していったのと多少なりとも関係してたりもします。

それはともかく、荒木にとってはそれが東日本大震災こそが身につまされる出来事だったというのは想像に難くない。

 

ゴメン、私にとっても阪神淡路大震災オウム事件は正直言って対岸の火事でした。おそらくは西日本の人にとっては東日本大震災は同じように対岸の火事だったと思う。勿論、朝から晩までTV番組は全てニュース映像になり、全国的な電力不足に悩まされたような部分で、多少なりとも影響はあったとは思うけど、喉元過ぎれば何とやら、というのもまた人としてそういうものだとも思う。

 

私も震災後すぐくらいは正直そうでした。そこから1年も経ってからの話ですが、実際に宮城県に行ったり、その下の福島県に行ったりした時に、その想像を絶する被害を改めて感じて、物凄くショックを受けました。

 

また違う例ですが、アメリカだと9.11の直後は、コミックの分野でも大きく影響が出ました。こんな絵空事のコミックを書いていて何の意味があるんだ?漫画の中のヒーローは現実を救えやしないじゃないか!そういう空気になったんですね。そこからもう少し時間が経って、いや、絵空事だからこそ、そこには伝えられるものもあるんじゃないか?って少しづつシフトチェンジしていったという例もあります。

 

そういう葛藤やジレンマこそが「ジョジョリオン」という作品だったんじゃないかと。そんな視点で見た時にこの作品の本質が見えてくると私は思う。軽くネットで検索した感じだと、その辺に触れてる人はほとんど居ないみたいなので、私はそこの視点を中心に感想書いてみようかと思います。

 

東方家、あるいは定助の家族の物語だったという部分に異論を挟む人は居ないでしょう。物語の締め方もそこでしたし。

 

震災の時、真っ先に何を心配しました?家族や恋人とか、自分に近しい人は無事だっただろうか?と思いませんでしたか?勿論それ全員が同じ考えとは言いませんけど、そう思った人は多いのではないかと。

 

ジョジョって、1部のエリナを除けば、恋愛描写ってそんなに軸としては描かれてきませんでしたよね。ジョジョって元のコンセプトから、世代の引き継ぎって1部の時点の最初から構想されてたので、エリナとかスージーQって多分そういう血族、血脈の話をするんだからという理由で入れていたのであって、恋愛を描きたくて描いてたわけじゃあ無いと思う。でも今回の康穂に関しては意図して恋愛要素を強めに描いてある。

 

勿論、ジョジョらしく家系図は出てくるし、最後の最後に7部との繋がりも描かれはしました。でも定助は仗世文でも吉良でもなく、土の中から生まれた自分を受け入れて、新たに自分の人生を歩んで行く事を選ぶ。

過去ではなく未来が大事なんだと。ジョジョリオンが描いたものは結局の所、そういう事なのでしょう。

 

ここでポイントなのは、ジョジョリオンという作日が「新しい価値観を最初からずっと描いていた作品だった」っていう事じゃないんですね。「ジョジョリオン」とはそこに至るまでの「過程」を描いた物語だったわけです。(そこはとてもジョジョっぽいですよね)

 

透龍君は新ロカカカで世界の構図をひっくり返そうとしました。常敏も新しい価値観で東方家を発展させようとしました。二人とも、古い価値観からの脱却を図ろうとするんですね。条理や宿命、これまでずっとそうしてきたという過去のしがらみこそが「呪い」であって、そこからどうやって抜け出すのかを考えています。

 

ザ・ワンダー・オブ・U」って、一応は透龍君のスタンドではありますが、最後の最後に厄災そのものの形がワンダーオブUであって、それが消える事は無いって言ってますよね。じゃあ、それを打ち破るものは何か?それが「ゴー・ビヨンド」その向こうに行け、あるいはそれを越えて行けっていう意味の単語ですよね。

 

厄災=この世界の条理、或いは不条理、禍であり、それがこの世界から決してなくなる事は無い。そういう価値観こそが呪いであって、ジョジョ的にはじゃあその運命や宿命からは逃れられないものなのか?というのが、荒木が地元の震災を経験して改めてジョジョリオンで描こうとしたテーマであって、そこから試行錯誤して描いているうちにたどり着いたのが「ゴー・ビヨンド」。それを越えて行け!という主張をしたわけです。

 

その乗り越える力のロジックが「回転」というのは私にはよくわかりません!7部の時からその回転の力を描き始めたけど、荒木の中でのロジックがどうなってるのか私は理解してないです。外部に依存しないそれ単体のみで完結している力だから、みたいな感じなのかな?永久機関的な感じとか、そこのみで成立する宇宙みたいなもの?荒木が回転には特別な力があるって思うに至った切っ掛けって何だったんでしょう?教えて詳しい人。

 

自然の中にある無限の力だからこそ、自然の理という壁すらも突破できる、というロジックなのかなぁ?個人的には神をも騙して世界線を越えるって「シュタインズゲート」のロジックがメチャメチャ面白くて好きなのですが、まあ荒木はああいう騙すみたいなものは好きじゃ無さそうですしね。


その謎の回転理論はともかくとして、定助も自分でコントロール出来ない力を導く役割をするのが康穂ちゃんのペイズリー・パークだったっていうのは面白い伏線回収でした。

 

いや荒木が最初からそれを想定していたのかはちょっと怪しい部分ではありますけど、ペイズリーパークの能力って、「人を正しい方向に導く力」ですよね。

 

透龍君も康穂ちゃんに近づいてたけど、あれって単純に利用していたっていうだけの話で、決して惹かれあっていたわけではない。対する定助と康穂は互いに惹かれあっていて、ジョジョ的に言えば愛=魂の引力や重力になるわけで、それもまたある種の家族に類するものです。

 

過去の仗世文や吉良ではなく、土の中から生まれた定助を最初に受け入れてくれた人物。恋愛的な要素をこれまでは重視して描いてこなかったジョジョシリーズの中では割と異端な存在ではありますが、かつて4部では親友であった康一君の性別を変えて女の子にした意味もちゃんとそこにはあったと。そこは凄く感心しました。厄災や呪い、理を越えて行く手助けをしたのは康穂ちゃんの愛だったっていう話ですよね?これ。

 

ピンチの康穂ちゃんを常秀が救ってくれた時は、お!ついにこいつも覚醒したかと思ったけど、結局は即物的な感情で動いてるだけで、その後すぐクズに戻っちゃってたのはちょっと残念でしたが、そこだけ献身的な愛とかに描いちゃうとテーマがブレちゃうので、あそこはアホな奴に戻さなきゃならなかったので仕方ないかも。

 

力の指向性、ベクトル理論みたいな部分ではね、密葉さんの能力も面白かったんだけど、そこは強いお母さんみたいな所で終わっちゃいましたね。花都さんもそんな感じの役割でしたが、それでもジョジョとしては割と珍しい描き方かもしれない。そこは時代の変化っていうのもあって、ハリウッド映画なんかに顕著なんですけど、ただの主人公の男の添え物的な女性の描き方がほとんどだった昔と比べて、今は女性の強さみたいなのは昔よりずっと描かれるようになってきました。映画に影響を受けまくってる荒木にも、そこは当然間接的にでも影響はしてくるでしょう。

 

そこ考えるとね、いかにもハリウッド的なマッチョイズム全開だった「バオー来訪者」から「ジョジョ」の1部2部辺りのキャリア初期の荒木作品からの変化として見ても面白いですよね。(最も荒木先生は昔からひとひねり加えてはいたけれど)

 

確か荒木先生って既婚だったと思うけど、奥さんや子供の影響とかはどうなんでしょう?妹だとか父親だとか、元からの家族は近影コメントとかで割と多めに出てくる印象ですけど、奥さんの話ってした事ありましたっけ?もしかしたら映画だけでなく、母は強しみたいなのはその辺の影響があったりするのかどうかはちょっとわからない感じ。

 

とまあ、時代や現実を踏まえて、その上で漫画で何を描いたのか?っていう視点で見ると、ジョジョリオンは相当に歴史的にも重要な作品になった印象。震災後の価値観の変化を漫画で表現してるものってどれくらいあるものなのかな?私は漫画文化全般に詳しいわけではないので、その辺の実情はわからないですけど、多分ジョジョリオンはその辺に関しては結構貴重ですよね?

 

ぶっちゃけ、世間的にはあまりよろしくない評判の方が多い印象ですけど、私みたいに社会背景を含めた視点で見ると、他に例を見ない面白い作品にはなってると思います。

 

まあでも若い人はあまりそういう視点で見ませんしね。そこに対してそれは間違ってるよ、って言うのもちょっと気がひけますし、逆に連載の最初から追いかけてる良い歳したおっさんにはこんな風な視点でジョジョを見てるよっていうのを楽しんでいただければ。

 

そりゃメタ視点抜きで単体の漫画として見たら、私も不満はいっぱいありますし、単純に話としては過去の部の方が面白かったようには思います。

 

10巻までの感想で書いた通り、この主人公は何者なのか?っていう部分で引っ張る部分が長すぎて、前半は正直退屈ですし、次の20巻までの感想の時のように、そこはグッと一気に盛り上がって来ましたけど、多分岩人間って後から足した要素ですよね?最初から構想していた部分とは思い難いのは確かで、全体的に観ると途中で路線変更したようには感じる。


厄災あるいは呪いを乗り越えるっていうテーマ自体は最初から持ってるものだとして(それは過去のシリーズでも出てきていたテーマですので)、それを描きながら荒木なりに変化していったという事なのだと思う。だから最初に言った通りこれは過程の物語なんだなっていうね。


神・創造主、あるいはそれ自体が理と言っても良いのかな?それが人間の変わりの保険として岩生物を作ったっていう設定は面白いし、それが石仮面とか矢にフラッシュバックするシーンとかは鳥肌物です。ちょこちょこと7部との繋がりが入るのも良かった。

 

でも岩人間側のキャラクター性がちょっと弱いかなっていうのと、そもそもバトルが基本定助ばっかりなんですよね。実質仲間は康穂ちゃんと豆銑さんくらいで。しかもソフト&ウェットの「何かを奪う」能力もほとんど生かされない戦い方が多かったし、毎回大ピンチになるんだけど、結構単調な印象は拭えず。

 

これは終わってみてから感じたんですけど、ソフト&ウェットって、堅くて乾いている岩人間とは対極のネーミングです。岩人間は言ってしまえばハード&ドライ。ここがね、話のテーマの方には繋がってるんです。

 

世の中には絶対に動かせない決まりみたいなもの、「理」とか「運命」、それは思わぬ時に襲いかかってくる「厄災」とかもその一環なんだと。人間一人が考えたってどうしようもない、世界の決まりです。すごくドライでハードな考え方ですよね。

 

最終巻の近影コメントで荒木自身も
「厄災を「乗り越える」とか考える事、それ自体がいけない事なのかもしれない。」
とまで言ってます。

それは世界や創造主から見たら「理」なんだけど、人間から見たら「不条理」極まりないものだと。全部が逃れられないものなのだとしたら、人間が一生懸命努力するとか無駄な事って風になるじゃん。それは悲しいし嫌だな、私たちは一生懸命生きてるんだから、そこには価値や意味があってほしいよ!という、物凄く感情的で、ドライな考え方の対極にあるウェットな感覚ですよね。まさにジョジョリオンはそこを描いた作品なんだと。

 

「いけないことなのかもしれない」とまで作者が思ってしまうような事に大して、ゴー・ビヨンド!って定助は言ったわけです。それを越えて行けと。このメッセージ性は凄い。そしてメチャメチャ面白い。

 

シリーズとして見た時は、これまで人間賛歌を描いてきて、そこにどうしようもない壁にぶち当たってしまって、じゃあこの先何を描けばいいんだ?覚悟があれば人は幸福になれると6部で描いて、次の7部からは「2周目」に入りました。

でも2週目であっても、因果は襲いかかってくる。むしろそれは2週目だからこそ、という面も出てきた。じゃあそれを突き破るものは何か?それは回転という因果の壁さえも越える事が出来るエネルギーなんだっていうのを7部で描いた。


そんな折に震災があって、津波というエネルギーは人の命や生活、思いという所まで全てを飲み込んでしまった。それは恐らく人間個人の因果関係とは関係無い。それは厄災であり、自然そのものの力である。そこに対して人は絶望するしかない。

 

ジョジョ中期の特徴でもあった、魂の昇天っていうのを描かなくなったのも多分その辺が関係してますよね。そこに向かおうとする意志=黄金の精神でさえ、それは無力なものではないのか?

 

でもその黄金の精神の全てを否定したわけじゃない。それがペイズリー・パークの正しき道へ導こうとする能力であり、愛情が故の勝利でもあった。過去の因果を乗り越え、新しい世界を歩んでいく事。物事の最後に残るのは「思い出」ではあるけれど、それ以前に「夢」があると康穂ちゃんが言うのは、終わりではなく始まりであると。

 

そしてここから新しいものが生まれるという所での祝福・福音を意味する「ジョジョ『リオン』」であり、祝い事と不幸のどちらでも出す事が許される唯一の存在でもあるのが「フルーツ」だとして、そこをモチーフにしたのも頷ける話で、厄災を乗り越えた先にある、「世界」ではなく、その世界を構成する最小の単位である「家族」からまずは手始めに描き、家族の新しい形がここから始まるんだ、という締めになった。

 

細部のディテールはともかくとして、テーマとしては見事なくらいに綺麗に収まってるんですよね。

 

なんか雑多でまとまりのない感想になっちゃいましたが、一度ちゃんとこれ整理してまとめてみようかな?

ジョジョリオン」が描いたものは何だったのか?っていうまとめ記事ならそれなりに長く読んでもらえるものになりそう。いやめんどくさいんで実際はやらないだろうけど。

 

むしろこの辺りの考え方をベースにして誰か上手く纏めて下さい。割と核心をついてると思うのですが、どうでしょうか?似たような事を言ってる人は今の所はまだ少ないと思うので。

 

そーいや「ファイナルディスティネーション」はどうやって死の因果から逃れたんでしたっけ?5だか6だか最後まで見たけど、最初の話にループするくらいのとこしか憶えていない。ブログ書くちょっと前に見てたので感想残して無いんですよね。
「イットフォローズ」の方は結局その死がいずれ誰にも訪れるものだと受け入れた時に、今回の院長みたいにいつでもそばには居るんだけど、襲いかかってはこなくなった、っていう結末だったはず。

 

そういうものの影響を受けて、荒木がいや自分だったらこう描くなっていうのが「ジョジョリオン」という作品だと思うので、じゃあ今回のその結末(テーマに対する決着を経て)の先にある第9部「ジョジョランズ(仮)」が何を描くのかっていうのも期待して待とうかと思います。細部のディティールじゃなく、テーマの部分に私は注目して読みたい所です。

 

 

ジョジョの奇妙な冒険 第8部 モノクロ版 27 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

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映画 プリキュア ドリームスターズ! 主題歌シングル

映画プリキュアドリームスターズ主題歌シングル

発売レーベル: Marvelous
2017年
☆☆☆☆


キラキラ☆プリキュアアラモード」「魔法つかいプリキュア!」「Go!プリンセスプリキュア」大活躍の映画主題歌
プリキュアの笑顔と勇気を歌にのせて輝くドリームスター☆
北川理恵(コーラス・五条真由美うちやえゆか)によるOPと木村佳乃によるEDを1枚にぎゅっと収録!


■01 桜MISSION~プリキュアリレーション~
 歌:北川理恵 コーラス:五条真由美うちやえゆか
 作詞:青木久美子 作曲:小杉保夫 編曲:高木洋

■02 君を呼ぶ場所
 歌:木村佳乃
 作詞:大久保薫山崎寛子、作曲・編曲:大久保薫

■03 桜MISSION~プリキュアリレーション~(オリジナル・カラオケ)
■04 君を呼ぶ場所(オリジナル・カラオケ)

の4トラック収録の映画主題歌シングル。
それぞれOP&EDの他に劇中歌としても使用されてますね。

 

オールスターズってDX3部作、NS3部作の時はそれぞれのシリーズ毎に、同じ主題歌をアレンジして3年分使ってました。
TVシリーズだと同じ主題歌が年間50回近く流れるわけで否が応でも馴染んでしまうもの。初代なんて無印とMHで合わせて100回近くですからね、プリキュアと言えばこの曲!という言わば顔の役割を果たすわけです。オールスターズも3年ずつ同じ主題歌を使いつづけたというのは、当然意図されたものかと思います。

 

TVシリーズ1年分を1クールごとに主題歌を変えてCDをいっぱい売るっていう、商業主義ではなく、1年変えない事でこの作品にはこのテーマ曲ですよ、と作品の印象付けの方を重視してるのがプリキュアらしさかなと思ってます。勿論、どっちが正しいとかそういう話じゃなく、狙いはどこかというのをきちんと考えた上での判断をしているという話。

 

そこ行くと、映画の1回のみでしか使われない主題歌って、印象には残りにくいのですが、その作品に合わせた新しい曲っていうのも、大人目線では普通に楽しかったりするものなので、実は毎年の映画主題歌シングルも私は割と楽しみにしてたりします。ライブとかで歌ってくれる確率は割と低めなのが残念な所ではある。

 

そんな中で「桜MISSION」は大好きな1曲の一つ。
作詞がプリキュア曲ではかなりの数を手掛けてきた青木久美子さんで、プリキュアだと割と言葉遊びを多用するのが特徴。そこが、「らしさ」に繋がっていて私はとても好き。

そこに毎回毎回その表現力に驚かされる北川理恵がボーカルっていう所で、それは好きになるわな、という感じです。

www.youtube.com

「アチコチ怪我して弱気になるよね だけど」
という北川さんらしいコミカルな歌いだしがあれば

 

「泣いてる友達 ほおっとけない」
そこからこれこそがプリキュア!っていう歌詞の流れだけでもう最高。

 

「傷つく前から逃げたら乙女が廃る」
ここはもう「乙女」っていう言葉が良い。

個人的にプリキュア歌詞の好きなポイントって。「乙女」だったり「ガールズ」だったり「行くよ女の子」とかそういう歌詞が入るのがとても好きで、それは何も女の子への気持ちに自分も共感するとかそういうのじゃなく、そういう歌詞に勇気づけられたり元気をもらってる人が居るだろうなって想像できるのが好きなんです。

 

基本的にはね、男だからこう、女だからこう、みたいなのってそういう押しつけはあんまり好きでは無い方なのですが、ヒーロー物で、男だったら立ち上がれ!みたいなのがやっぱり好きで、それは、自分もそんなヒーローみたいに勇気を振り絞って立ち上がる強さをそのヒーローなり作品なり曲なりに背中を押してもらう、っていう構図がとても好きなのです。

 

だからプリキュアの曲とかに「頑張れ女の子」とか後押しされて、そこで現実の世界で折れそうな心をぐっと耐えて、勇気を振り絞って前に一歩踏み出すんだ、ってなる人もきっと居るだろうと。自分がヒーローにあこがれるのと同じような感じでね。そう思えるのが好き。

 

この「桜MISSION」は最初から最後までそんな歌詞に溢れてて、聴いてるだけで嬉しくなってしまいますし、「百花繚乱」「豪華絢爛」みたいな4文字熟語の連呼とかも楽しいですし、とにかくワクワクしてくる感じが良い。

 

それでいて2番の歌詞の
「一人一人が今 希望だと気付いた
 色は違えど 美しい」
と、泣かせにくる。

 

プリキュアソング投票みたいなのでも、あまりこの曲が取り沙汰される印象は無いですけど、個人的にはとても好きな1曲です。

 

この映画の時期は「プリキュアつながるぱずるん」というアプリゲームがあって、映画と連動してイベントで延々この曲の1番がリピートされ続けてトラウマ、という状況になってたみたいで、ファンの間ではそのネタで語られる事も多いですが(宮本加那子も言ってたし)、私は「キュアぱず」始めたのは丁度この後くらいだったので、私にとっては良い思い出しか無いです。初期のキュアぱずは、これ子供は絶対にクリア出来ないでしょ?っていう鬼の難易度だったので(通称メキシコの荒野とか呼ばれてました)
そこはまあしょうがない。

 

2曲目の「君を呼ぶ場所」はしっとりバラード系。
劇中でもサクラとシズクの再会シーンで使われてましたが、まあ悪くは無い、ぐらいの印象しか無い。ゴメン。

 

「桜MISSION」は名曲!と言いたいだけの記事です。

 

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